2002年 11月

2002/11/30   今日のコンサートは?   NO 269

 ホテルや葬祭式場での葬儀で履物を脱ぐ必要はないが、お寺や地域の会館では畳やカーペットのこともあり、履物への対応が大変なことである。

 「私の靴がない」

 そんなお言葉を何度耳にしただろうか。その度にスタッフ達が走り回り、司会者が「恐れ入りますが」とのアナウンスを行わなければならない。

 高齢者の中には、ご自分の履物を覚えておられない方も少なくない。
「みんな帰ったら1足残る筈。それがおそらく私の靴だ」
 お通夜でそう言われ、午後11時まで式場におられた方もあった。

 弊社では、スタッフ会議の中から考案した「下足札」を用意しているが、活用くださる人は少なく、それからも何度も履き間違い事件が発生していた。

 ある女性の方の無宗教葬儀が行われ、通夜に代わる前夜式の時、一人の方の靴が行方不明となった。

 残った他人の靴を履きたくないのは誰も同じ。その方は、スリッパを履かれ、タクシーで1時間も掛けられてお帰りになった。

 弊社が責任を取るのは当たり前。タクシー料金は頑なに固辞されたが、靴だけでも弊社でということで解決することになった。

 次の日に電話で謝罪を申し上げ、ご自身でお選びなられた靴の領収証を郵送いただくこととなり、数日後、送られてきた金額を振り込むと共にお詫びの一筆をしたためて郵送した。

 この葬儀の故人は、芸術大学にお店を出され、様々な分野の芸術家の皆様が参列されておられた。

 さて、数日後、今回の被害者のお方からお手紙が郵送されてきた。中にはコンサートのチケットが2枚同封され、美しい案内パンフを開けると、そこにはご本人の大きなお写真が掲載されていた。

 なんと、そのお方は著名なピアニスト。音楽活動30周年記念としてシンフォニーホールで「ピアノ協奏曲の夕べ」を開催されるそうで、音楽好きな女性スタッフ2名がご好意に甘えることになった。

歌劇「後宮からの逃走」序曲・モーツアルトのピアノ協奏曲23番イ短調 作品488・プーランクの2台のピアノと管弦楽のための協奏曲・ガーシュインのラプソディーインブルーのプログラム。私も行きたいと心から思っていたが、今回は、式場で対応してくれたスタッフに譲ることにした。

 奏者が全霊を込めて演奏される時、ピアノがドレスアップしたように光り輝き、幸せそうな表情を見せてくれるもの。そんな優雅な時間を過ごすことの出来る2人のスタッフを羨む日となった。

 先生、素晴らしい演奏空間を想像いたしております。その節には、大変ご迷惑をお掛けいたしました。伏してお詫び申し上げます。

2002/11/29   注目される日本トータライフ協会   NO 268

 大阪研修会で、日本トータライフ協会のホームページ「リニューアルバージョン」のプレゼンが行われた。

 監修を担当したのは、当協会の副理事長。制作に携わったのは、この世界でのプロ中のプロ。完成一歩前という段階での披露となったが、その世界はまさに「メルヘン」。
利益追求ではない活動団体らしいイメージが見事に表現され、匠達が感嘆の声を上げていた。

 このリニューアルに取り組んだのは今年の初め。何度も東京で合議を重ね、何回も白紙に戻して「かたち」になったもの。それだけに中途半端なレベルではなく、オープン化されたら大きな話題を呼ぶことになるだろう。

 葬祭業界は、この数年、葬祭ディレクターという方向で進んできているが、幕を張る技術など必要なく、今や葬祭プロデューサーという世界が求められつつあり、近い将来、ブライダル産業のように個人的なプロデューサーも出現し、葬祭業者を下請け化するビジネスが潮流となるだろうが、非日常的な世界であり、無知なお客様が、プロデューサーの自己利益中心主義に泣かされる危険性があると予測している。

 葬儀の専門家を育てる学校も誕生しているが、実際の葬儀を体験していない教授陣も多く、そこに学ぶ学生達が我々の講義を求めてくるという不思議な現象があるから面白い。

 彼らの情報収集、そのひとつにインターネットの存在があるが、葬儀に関するページの検索をすれば、すべてと言って過言ではないほど日本トータライフ協会に関するメンバーが登場しており、教授達が悩んでいるということも聞いている。

 結論は、「体感に勝るものなし」ということだろうが、協会メンバー達の抱く哲学や信念は強烈で、プロの葬儀を1回体験すると、一挙に「宗旨替え」というケースが大半。
今後、いよいよ協会の存在が業界で疎んじられる時代を迎えることになるだろうが、それは、社会ニーズを適格な「かたち」に具現化するからとも言えるだろう。

 最近、若いメンバー達が面白いことを言い出した。
「物事の研鑽は、早く本物に出会うことが最短の道」との意見が共通し、会う度に求めてくるレベルがグレードアップしてきているのである。

 応える方も大変である。自らの研鑽なくして若手を率いることは出来ず、これらは自身を磨くという相乗効果にもつながっている。

 日本トータライフ協会が組織化された発端に、我々葬儀社が死を迎えた時に「どんな葬儀で送られたいか」ということがあり、経営の観点から離れ、理念を共有する匠達が「夢集団」として形成されてきた背景がある。

 この姿勢は、これからも不変であると信じているし、葬儀の世界ではない各分野のプロ達が参加してきているところに存続意義があるように思っている。

 加盟メンバーの会費で運営される理念共有団体は、今、葬祭業界、ホテル業界、マスメディアなど様々な世界で注目されてきているが、加盟の際の厳しい条件のひとつに「経営者の葬儀に対する信念」という「論文」の提出が義務付けられており、クリアするためにステップアップしながらウェイティングされている業者がおられることが嬉しいところだ。

 日本トータライフ協会への加盟。それは、安心のブランドという「かたち」での認識が始まっている。

2002/11/28   大阪研修会    NO 267

 それぞれの地から集まったプロ達が、それぞれの交通機関でそれぞれの地へ帰って行った。

 大阪、神戸での2日間研修会。ホストを担当した弊社と神戸の「株式会社 公詢社」のスタッフ達は、責務を終えてほっとしているが、昨夜のお通夜の担当にそれぞれの式場へ向かって行った。

 神戸にある「人と防災未来センター」を見学後、海辺のホテルで開催された講演会。公詢社の社長が語ってくれた震災時の未曾有の体験、それは、多くのメンバー達が「澄んだ」悲しみの涙と共に、彼が震災時に於ける葬儀社として行動された、立派な行為に感動の涙も流していた。

 震災当日には100人の柩。次の日には200人分。そしてその次の日には数百人分。
 それぞれのご遺体には、思い掛けない天災の日まで、それぞれの人生があり、それぞれの送られ方で火葬を迎えるという悲劇が秘められていた。

 ご夫婦が別々に葬送されたこともあるし、誰一人として送り手のない方も多くあった。

救出に当たった警察官、自衛官、住民の方々と共に体感された連日の悲劇は、二度と体験したくない思い出として脳裏に焼きついていると言われ、毎年、1月17日を「禊の日」と決め、全社員が入浴して新品の下着を身に付け、午前5時46分までに出社し、屋上で慰霊祭を行っているということに心から敬意を表している。

 感動しない人は、他人を感動させることが出来ないという言葉があるが、今回の研修会では、メンバー達が共有する人としてのあたたかい感性を改めて認識した思いである。

 一方で、マンネリの中に発生する「思い込み」によるハプニングもあった。朝に大阪のホテルに迎えに来る筈の大型バスが約束の時間を過ぎても到着せず、問い合わせて見ると良く似た名称の別のホテルに行ってしまっていることが分かり、急遽、全員がタクシーで神戸に向かうことになってしまった。

 観光バス会社の運転手さんに生まれた「勝手な思い込み」に対して、メンバーの誰もが非難することなく、自身の貴重な体験として捉える姿勢にもメンバーらしさを感じた。

 さて、大阪研修会では新しい発見があった。それは、若手プロジェクトチームが論議を重ねて体験させてくれた世界。我々プロが陥り易い危険性を秘める「原点を忘れてはならない」ことを教えてくれたように思っている。

 彼らの会話に出てきた素朴な疑問。それが、お客様のお声のように感じられ、明日からのテーマを与えられたように思えてならない。

 今年に開催された4回の研修会。メンバー達は、会う度に成長している。目で見たもの耳で聞いたこと、それらは再会した時に倍加して昇華されてきており、そのスピードがいよいよアップしていることも驚きだ。

「この連中は普通じゃない。とんでもない人達だ」
 ホストを担当した弊社スタッフ達が、きっとそう感じてくれた筈。

 「この疲れは何だろう?」。昨夜は、そんな不思議なお疲れモード。
大震災の犠牲者の皆様に衷心より手を合わせ、私が生かされていることにも感謝の合掌を申し上げ、いつの間にか眠ってしまっていた。

2002/11/25   七 五 三     NO 266

 20数年前に、ある団体に入会することになった。そのメンバーは十数人であったが、すべての方が自転車産業を経営され、フレーム、サドル、グリップ、タイヤなど、様々な関連部品を製造される企業のオーナーだった。

 月に一回の集いがあり、年に1度の旅行も楽しみ。非常に出席率のよい会であった。

 その中にいた友人の縁で入会ということになったのだが、初めて出席をして名刺交換をした時、まったく読めない苗字の方がおられた。

「七五三」という苗字で、「しめ」というお読みするそうだが、誰も読んでくれないと言われていた。

 さて、子供が誕生してからしばらくすると「宮参り」の神事があり、神社に参拝することになるが、生まれ立て子供の記憶に残ることはないだろう。

 仏教にも浄土真宗では「初産式」という仏事があるが、これをお受けにお寺に行かれることは稀だと耳にしている。

 幼い子供にとって、初めて神様の世界に接する体験となるのは七五三となるが、私の孫である女の子が非常にやんちゃなタイプで、七五三で大恥を掻いたことがある。

 由緒ある有名な神社に予約をし、本人が「お姫様みたい」という着物を着せ、娘夫婦に伴って神社に行った。

 控え室には数組の方がおられ、中には交通安全祈願や受験の合格祈願の方もおられた。

 予約していた写真館で悪戦苦闘して撮影を済ませ、神社に到着したのが約束の10分遅れ。お陰で次の組に入ることになってしまった。

 やがて巫女さんの案内で手を清める神事を済ませ、広い神殿に座ることになったが、初めて見た宮司さんの服装を目にして「あれ、なーに? なんであんな格好をしているの?」

 こんな光景は、きっと宮司さんも何度もご体験されているだろうが、他の方々に気を遣う。娘夫婦があやしながら困り果てている。

 そんな時、神殿に置かれてあった大きな太鼓が宮司さんによって鳴らされた。直径が1メートル50センチもありそうな大太鼓。その響きが凄い迫力で我々が座る畳に振動して伝わってくる。さすがにこの時だけは静かになった。
 
 続いては祓いの行事。我々の所へ近付かれ半紙で作られた大きな祓いの神事用具を振られる。「それ、なに?」
 「ご低頭ください」という祭員の言うことも聞かず、娘夫婦が2人で頭を押さえつけている。「痛い。何するの?」という声が響き渡る。

 やがて祝詞の奏上に入った。宮司さんが一段高い所に着座され、祝詞が始まる。「この間、低頭」。これもまた無視。「何を言ってるの?」「お家に帰りたい」そんな言葉に周りで苦笑が聴こえ、早く終えられることを願うばかりだ。

 続いては玉串奉奠だ。名前を呼ばれて親子三人が一段高い所へ上がったが、親が2礼2拍手1礼の神事作法をやれる状況ではない。
 
 しかし、何とかやり過ごした。帰りに頂戴するお神酒と千歳飴のお土産のを頂戴する時は静かだった。

 境内で写真を撮って駐車場に向かって歩いていた時、さっきの宮司さんに会った。
 「お元気なお子様ですね」という言葉で我々全員が頭を下げた。

 受験祈願に効力がなかったら、ひょっとして「あの悪ガキの所為だ」と恨まれないだろうかと心配している。

2002/11/24   研修会を前に    NO 265

 野辺に咲く 花ほええみて 秋深し

 小さな野菊が紫の花をいっぱい咲かせている
  ふと祖母の笑顔がうかんで来た 一所懸命なのが美しいのよ、と言っていた

 秋は人恋しい 向寒の砌 あなた様にはご自愛専一に
                           2002年 秋の終わりに

 これは、全国的に有名な大阪の料理屋の女将さんから頂戴した愚妻宛のお葉書の文章。これまでにも何通か拝見させていただいたが、いつも錦心繍口な文章に、文字文学に触れさせていただく思いを感じている。

 我々協会のメンバーが大阪に集まると、必ず行きたいと言うクラブがミナミにある。
誰もがママさんから頂戴した手紙に感動し、全員がファンになったのである。

 そのママさんとは、不思議なえにしがあって知り合うことになったが、気配り、心配りが、さすがに一流女性という雰囲気をいつも感じている。

 私は、キタやミナミに出掛けることは滅多になく、協会のメンバー達がやって来た時しか行かないが、正直言うと、一人で行動出来るタイプでない恥ずかしがり屋なのである。

 しかし、マイクの仕事の世界になると絶対に「あがる」ことはなく、お客様が多いほど燃えてくるから不思議だ。

 パーティーや結婚式に招かれ、宴たけなわで会場が賑わっている時、「スピーチを」とマイクを持つと、喋り始めて20秒もすると全員が自席に戻られシーンとなるのも不思議な現象。友人達は、これを「葬儀屋モード症候群」と言って笑っている。

 私はマイクの世界のプロである。テレビの放送局でアナウンサー達が誰も出来なかったナレーションを、1回のテストだけで収録したことがあり、プロデューサーやアナウンサー室長が、現役の一流アナウンサーに達に説教をされたということもあった。

 講演の講師として招かれると、受講内容が「面白くてためになった」という言葉もあるが、もっとも多いのが「オシャベリのプロ」という評価。これは、お説教を専門とされる団体への講演を終え、主催者側からの謝辞で頂戴したこともあるから偽者ではないだろう。

 さて、大阪研修会が目前に迫ってきた。全国から多くのプロ達が集まる。2次会である懇親会も研修の延長だし、3次会のひとときも研鑽の貴重なひとときとなり、会場となるホテルのワンフロア全室の提供をいただき、順に部屋を移動するだけで可能な設定をした。

 キタやミナミを楽しみにしているメンバーがいるかも知れないが、行くとしても深夜となるだろうし、2日目の朝に神戸へ出発というスケジュールからすると、ちょっと厳しいと思っている。

 本番の前日となる明日、若手プロジェクトチームが先に大阪入りを計画しているようだが、私の「偲ぶ会」のシナリオ構成で何やら企んでいるらしい。

本番で私自身が、自分の遺影を眺めながら参列する立場も乙な物であろうと想像している。

2002/11/22   扶養家族が増える    NO 264

 メモリアルサービスの事務所にいるアイドルペットの猫が、随分大きくなった。
ペットハウスから出すと、もう捕まえることが難しいぐらいに走り回る。

 今日も私の隠れ家にいつの間にか侵入し、録音中にNGを出してしまった。

 無名ながらスタッフ達に可愛がられているこの猫に、大変な問題が持ち上がった。
スタッフ一同にとっては寂しいことだが、このやんちゃな猫が5日後から私の自宅に転居することになった。

 その原因になったのは、今日に内定した新しい女性スタッフの入社。彼女は猫が苦手だそうで、仕事が手につかない状況が予測され、先ずは仕事環境の正常化というところから、私に猫の扶養義務があると決断された。

 自宅には、現在2匹の猫がおり、これで3匹目。家の中がますます荒らされることは確実で、猫同士の争いが起きないような策を考えなければならず悩んでいる。

 また、これまでに何度も経験をしてきたペットの死。言葉を伝えることの出来ない動物の終焉の様子は見るに絶えず、なるべくなら遠慮をしたいところだが、スタッフ達の団結が始まり、そこに加わることになる彼女のことを慮ると仕方がないかと覚悟をした。

 来春からの新しいスタッフが入社することも決まっており、面接に至った人達は、それぞれに個性があり、実力を発揮してくれるものと信じているし、「人材」から「人財」への存在になってくれることを期待している。

 目前に迫る大阪研修会。準備に追われるスタッフ達。全国から集まるプロ達の来阪を前に緊張が走る。

 緊張と耐えることは「人を大きくする貴重な体験」。この山を越えた時、弊社スタッフが一段とレベルアップしていると信じているが、今年の研修会を振り返ってみると、東京に始まり、高知でのIT技術活用による「画像処理」。北海道での「愛と癒しのサービス実践」など、それらはすべて弊社のスタッフ達で具現化されており、お客様の大きなご満足のお声を頂戴するに至っている。

 今回の大阪研修会のメインテーマは「無宗教」だが、メンバー達が持ち寄る様々なソフト、ノウハウが、現在の宗教形式に基く葬儀の中でどのように融合されていくべきかという問題も提起されている。

 故人の人生を見事に表現させることの出来るプロ達。音響、ホテル、照明、音楽など、それぞれの世界のプロ達も集まる研修会。間違いなく日本の最先端技術のプロ集団であると自負しているが、それは、プロがプロを畏れる姿勢にこそ、その値打ちと意義を感じるものだろう。

 今日から3日間、東京へ出張する。帰阪すれば次の日から研修会の設営、そして2日間の本番が始まる。この間、この「独り言」の発信が不可能となってしまう。パソコンの発信システムが故障しており、毎日ご訪問くださる皆様には誠に申し訳ないところですが、なにとぞご海容くださいますよう伏してお願い申し上げます。 

 遅くとも28日から再開予定ですが、研修会の結果や、昨日の毎日新聞トップ記事に掲載されていた「ベルコ」さんがお客様から提訴のことについてもしたためる予定です。

2002/11/21   増えた「お心残り」    NO 263

 数年前、大阪と東京で、大手新聞社主催の「お葬式」フェアが開催された。

 総合プロデューサーを担当することになった私は、「葬儀の流れ」のコーナーと、「悲しみの体験談」の展示コーナーを重視したが、訪問された方々が最も感動され話題になったのが「悲しみの体験談」であった。

 若くして伴侶を亡くされた方。事故で大切な方を亡くされた方。子供を亡くされた方。友人を亡くされて衝撃を受けた方など、25人の方々が思いを綴られたパネル展示のコーナーは、いつも人がいっぱいで、大半の方々が涙を流され「素晴らしい企画でした」とのお言葉を多く頂戴した。

 そんな会場で、「プロデューサー、すぐに来てください」と、新聞社の方が血相を変えて私を呼びに来たことがあった。

 歩きながら事情を訊いてみると、「責任者を呼んで欲しい」という方があるそうで、彼は「何か気に入らないことがあり、叱られるかも知れませんよ」とプレッシャーを浴びせてきた。

 その方は、椅子とテーブルがセッティングされた一画で待っておられ、「君が責任者か?」と言うなり、堰を切ったように喋り始めた。

「君達は、責任を感じるべきだ。こんなフェアを開催するなら、なぜもっと早くに開催しなかったのだ」

 しばらくの間、黙って拝聴しているとどうも話の辻褄が合わず、失礼だが言葉を遮り、こちらが知りたいことを伺うようにした。

 やがて、おっしゃりたい意味が分かった。この方は、去年に伴侶を亡くされた時の葬儀に対して大きな不満を感じられ、その憤りを私にぶつけてこられていたのである。

 葬儀社と宗教者に対する不満を30分も聞くことになったが、それらの結びに言われたことが次の言葉であった。
 
「このフェアが去年に行われていたら、妻が喜ぶ葬儀が出来たのに」

 それは、非常に寂しげな表情で、成す術のないことだが、私は、ある提案を申し上げた。

 一周忌の「偲ぶ会」を行なわれる方法もあることを伝え、デモテープの映像をご覧いただいたが、映像が終了すると同時に、「これ、最高。やる。絶対にやる。妻が喜んでくれる」とおっしゃられた。

 その後、されたかどうかは定かではないが、その時にいただいた名刺で、その方がある大学の教授であることを知った。

 さて、数日前に担当した葬儀で、これと全く同じことを言われることがあった。ご出棺を見送られた会葬の方が私に近付き、「葬儀社選びで大失敗をしてしまった。なんで、君達に出会えなかったんだ。オヤジに謝りたいよ」

 そこで「偲ぶ会もありますよ」と思わず言ってしまったが、「3年も経ってしまっているから」と応えられ返す言葉が見つからなかった。 

2002/11/20   CD『慈曲』の話題    NO 262

 過日に書いていた姪が、サイパンに戻り、御礼のメールが入っていた。

「サイパンまでは4時間ではなく、3時間です。嫌いな飛行機でしょうが、講演と結婚式の2回は来ていただかなければ」と書き込まれ、その1時間後に婚約者からのメールも入ってきた。

 太平洋を走る新幹線の夢を見たと書いたが、本当に飛行機嫌いの私は、2回で6時間なら1回で6時間の方がよいと思っている。

 そんな私も、過去には世界中に出掛けている。アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米など、様々な航空会社のファーストクラスサービスと一流ホテルのサービスを体験することを目的に、不相応な旅費を投じてきた。

 これらは、弊社のサービス提供コンセプトの一部として生かされ、「人生最期の旅をファーストクラスで」という発想に至ったのである。

 過日に行われた葬儀で、ご出棺の後に面白い光景が見られた。会葬者が強烈なインパクトを受けられたようで、「君達は、一体、何者なのだ」というお言葉から、感動の思いを語ってくださっていた。

「こんな葬儀は、見たことも聞いたこともない」 

 これは、よく耳する言葉であるが、すべての方が「これなら納得」とおっしゃっているのだからエコノミークラスとは感じておられないと自負している。

 さて、今日は、弊社の女性スタッフを伴って、大阪研修会の会場となるホテルで打ち合わせを行なってきた。ホストであるもう一社、神戸の「株式会社 公詢社」の社長にもご足労を掛けたが、昼食時に拝聴した社葬やホテル葬に対する立派な哲学に弊社のスタッフが感服し、来年1月17日の阪神大震災慰霊式典のお手伝い研鑽を約束していた。

 帰社して事務所でシナリオを打ち込んでいると、「溜まっています」と言われ、追憶ビデオのナレーション吹込みを要請されるまま、私の「隠れ家」に上がることになった。
 
 疲れモードで声の調子がもうひとつであったが、BGMの「慈曲」の調べが心地よい癒しの「ひととき」ともなった。
 話題が変わるが、このオリジナルCD「慈曲」だが、葬祭業界の司会者やホテル業界では大きな話題を呼んでいる。グーグルで「音楽 葬儀」検索でもトップに登場し、問い合わせが多くなっているが、「非売品です」とお応えすると「何とかなりませんか」と皆さんに懇願される。

「このCDは、監修をした私だけのものではありません。これは、協会メンバー達の要望から誕生したもので、メンバー達しか使用出来ないことになっているのです」とお伝えしている。

「では、メンバーとして入会させてください」

 そこで協会の趣旨説明することになる訳だが、CDの生まれた背景のことをご理解いただくと、「弊社では無理のようですね」と、非常に残念そうなお言葉が返されてくる。

 今、全国各地で海賊版というべきダビングテープが出回っているそうだ。これらがメンバーから流れることはなく、過去に関わっていた関係者かも知れないとの噂もあるが、知的所有権の侵害は、使用される方の恥ずべき行為で、マナーなくして葬儀に携わって欲しくないと思っており調査を命じたが、使用されているホテル、葬祭式場、司会者さんを、この独り言や協会の「有為転変」で公表する考えも抱いている。

2002/11/19   痩せた原因    NO 261

 この数ヶ月で、体重が5キロも減った。

「ダイエット グラムで減ってキロで増え」という川柳に感心したことがあったが、私は、決して、ダイエットに取り組んだのではないことを正直に吐露申し上げる。

 仕事が段々とハードになってきているが、それが原因でもない。

 数ヶ月前、私がよく通っていたお寿司屋さんでご不幸があった。昔馴染みの奥さんが突然にご逝去され、本当に悲しい葬儀が行われた。

 私が式場に初めて行ったのは、お通夜の前。ご遺族にお悔やみを申し上げながら、私も涙が溢れて止まなかった。

 このお寿司屋さんとは近所同士の関係もあり、私の青春時代からのお付き合いがあったが、5年ほど前から、私のストレス解消のお店となっていたのである。

 ナレーションの原稿や進行シナリオの創作を終えると日付が変る深夜が多く、完成したらこのお店に行こうという支えともなり、自宅から歩いて3分というこのお店に、週に3日は通っていただろう。

 午前3時頃まで営業されていたお寿司屋さん。常連のお客さんとも馴染みとなり、いつも葬式談義で盛り上がっていたことが懐かしい。

 好き嫌いの多い私は、いつもメニューが決まっていた。僅かな売り上げにしかならない私を、いつも歓迎してくださったご夫婦。あのやさしい奥さんが亡くなられるとは夢にも思わなかっただけに衝撃だった。

 ご夫婦は、過去に娘さんが交通事故で亡くなるという悲劇の体験もされていた。それだけにご長男に対する思いも強く、息子さんが結婚される前、息子さんが彼女を伴って私の自宅に来られたこともあった。
 
 悲しい葬儀が終わっても、それからお店が開かれることはなかった。

 私が深夜に徘徊していたお寿司屋さんが閉店されてしまった。ほんの少しのお酒と少量の肴しか注文しなかった私を歓迎してくださったお店。そのお店に行けなくなったこと、つまり、深夜食が出来なくなったことが減量の原因なのである。

 司会者は冷静でなくてはならない。決して自身の感情を表していけない。涙を流すようでは一流でない。

 遠い昔にそんな教育を受けたが、私は、時には故人と遺族のために葬儀委員長と喧嘩までやってしまうこともあるし、涙を流すことも多くあり、未だに一流と呼ばれる資格がないだけではなく、これからも呼ばれることはないと思っている。

2002/11/18   ビデオとBGM「慈曲」   NO 260

 結婚を機に退社した女性スタッフが、時折に来社することがある。生まれたばかりのベビーを抱いてきたこともあった。

 現スタッフと元スタッフのやりとりの中に、退社後に生まれた新しいサービスシステムを自慢げに見せる光景がある。

 1年前になかったものや、3時間を要して創作していたものが、1時間足らずで完成する変化に全員が驚いている姿が面白く、これは、嬉しいひとときでもある。

 司会を担当していたスタッフも、追憶ビデオへの音楽とナレーションのミキシングの作業を目にして、「こんなことが簡単に出来るのですね」とびっくりし、自身のナレーションを記念に吹き込みたいということもあった。

 このシステムの完成は、確かに便利ですべてのお客様にお喜びをいただいているが、これまで以上に神経を遣うことになっている。

 なぜなら、葬儀当日の<生>バージョンのナレーションの場合は、そこだけで通り過ぎることになるが、吹き込み録音ということになれば、それらが相手側に残ることになり、細かいミスも許されず、特にナレーションの原稿創作そのものに負担が掛かってくるということ。

 目で見る「文字」と耳で聴く「言葉」では、全く異なるニュアンスで伝わる危険性もあり、言葉の選択も重要なポイント。無学な愚生の最大の泣き所でもある。

 ある日、プレゼントしたビデオのダビング要望があった。それも20本である。普通では考えられない数量で、事情を伺ってみた。

 それによると、はじめは、兄弟4人だけと考えていたそうだが、亡くなられたご本人の人望が厚く、趣味や同好会など様々な関係者からも「記録」としての要望があり、20本になったそうだ。

家族でない人達がフォトビデオを欲しいと言われる人物。私の人生もそうありたいものではないか。

 ところで、ビデオのBGMだが、法的に著作権が絡むところから、故人の愛唱曲の場合は手続きを行うが、これまでのすべては私が制作監修をしたCD「慈曲」となっており、元々、「癒し・慰め・儀式・礼節」をコンセプトされ、これらのBGMとしてのイメージが完成しており、「慈曲」を「かたち」として具現化したことを改めて誇りに思っている。

「葬儀の時に流れていた曲が印象に残っています。曲名は?」 

 そんなご質問も結構あるが、「弊社が関係するブランドです」と申し上げ、販売していないことを伝えると驚愕され、「それだったら、絶対に手に入れたい」とおっしゃることが多く、テープに録音してプレゼントしたこともあった。

 さて、このCD「慈曲」の10曲だが、一流と呼ばれる司会者でしか活用不可能だと断言する。イントロ、旋律、エンディングなど、活用に際して秒単位のシナリオ構成力が求められ、どこでも使用されている環境音楽の次元とは異質のものであるからだ。

 全国に点在する日本トータライフ協会のプロメンバー達。彼らは、この慈曲を見事に使いこなしている。

2002/11/17   今から、お通夜に   NO 259

 弊社が加盟する「日本トータライフ協会」のメンバー掲示板には、全国の各社が担当した特徴ある葬儀のことが書き込まれてくる。
 
 参列者が数千人もあれば、数人だけのお気の毒な福祉葬儀もあるし、無宗教形式やホテルでの偲ぶ会も多くなっている。

 ご遺族が喜んでくださったサービスや感動を頂戴したオリジナルサービスは、掲示板に掲載された日から各メンバー達が、自社での具現化実践に向けて行動が始まる。

 素晴らしい発想だろうと思って書き込んだら、一月も経たない内に想像をはるかに超えるレベルに進化されていることが多く、何度も驚かされた。

 難しい葬儀の場合にアドバイスを求めてくる電話も少なくないが、「それ、いただき」と言うだけで完成してしまうレベルのメンバー達。それぞれがどんどん進化してきている。

 こんなメンバーを迎えることになる大阪研修会。ホストを担当する弊社と神戸の公詢社の2社は大変である。

 両社は打ち合わせのために何度か合議したが、互いが多忙を極め、最終打ち合わせをすることが出来ない現状。しかし、近日中に何とかセッティングしなければならないので悩んでいる。

 過日、神戸を訪問した時、上述のことを多く感じることがあった。ホテルでの偲ぶ会、お別れ会、社葬のサービス提供レベルが急速にアップ。自社ブランドの構築まで到達していて嬉しく思って帰阪した。

 ビデオの交換を行うことから、スタッフの交流も始まり、「負けるな」「追いつけ」「追い越せ」という、よいライバル意識がプラスになり、今月の研修会がきっと成功するように感じているが、女性スタッフの制服に対するライバル意識では、現在、弊社スタッフが悔しい思いを抱いているようだ。

 今日も葬儀。明日も葬儀。これにお通夜があり、ナレーションのシナリオとビデオ編集に追われる。手作り対応が大変なうえに、この「独り言」の推敲もしなければならない。

 スタッフ達が頑張ってくれている。除序にお客様とのコミュニケーションがアップしてきているようだし、お礼のお電話やお礼状を頂戴することが増えてきたことは嬉しいことだが、協会のメンバー達に遅れをとることだけは許さない。

 毎日が残業の日々。しかし、お悲しみのお客様の存在がある。

 私は、生きている。「生かされる」ことを終えられた方のお世話をするのは当然だ。一生に一回限りの葬儀。『思い出を形見に』『お心残りの解決のお手伝いを』を心に、今からお通夜に行くことにしよう。

                 平成14年11月24日 18:00   合掌

2002/11/16   社葬とホテル葬の将来    NO 258

 こんなことを書けば、葬祭業者、ホテル業界のみなさんの顰蹙を買うだろうが、今日は、過去にもしたためたことのある「社葬」について考えてみたい。

 結論として、社葬を行うことが次第に減少し、近い将来には確実に行われることがなくなるということ。それらは、現在の潮流にあるホテル葬、偲ぶ会、お別れ会にも顕著になっている。

 現在、ホテルを会場として行う社葬にも、大きな変化が生まれつつある。それは、不特定多数の参列を制限した「招待形式」傾向で、それらの規模も除序に小規模化し、やがては消滅してしまうという構図を予測している。

 新聞の黒枠広告で「社葬告知」を掲載されることも100パーセントなくなるだろうし、これらは大企業から始まってくるだろう。

 最後まで社葬にこだわるというケースが予測されるのは、中小企業の創業者の葬儀だが、これらも日を改めて行うことが少なくなるだろうし、盛大に行うことになれば得意先の顰蹙を買うだけではなく、強い抵抗感の発生から21世紀時代の企業姿勢の将来に暗雲を感じられてしまうと確信する。

 これらは、ホテルが仏事サービスを始めたころに予測できたこと。料理ともてなしを売り物にしたホテルが宗教者を歓迎しない姿勢を見せた時、それらの将来が決定されたと言えるだろう。

 しばらくは続くであろう社葬形式による「偲ぶ会」「お別れ会」のホテルバージョン。ただの「集い」や「会」のレベルの現状は、消滅の方向への加速の原因であることも知るべきだ。

 一方で、世の中でありとあらゆるものの「安売り」合戦が繰り広げられているが、その裏側で「本物」を探し求めておられる方の存在も知らなければならない。

「全国統一価格で葬儀が出来ます。「セット価格です」「パック販売です」「コンビニで葬儀を受注します」
 そんなキャッチコピーが飛び込んでくるが、すべては近い将来に消えていく運命にあると断言する。一人の人生を送ることがどんなに大変なことか、また、葬儀終了後から残された遺族がどんな悲嘆に陥るのか。そんな心理を研鑽すると、これらのコピーの滑稽さがはっきりと見えてくるし、人の社会での礼節を欠いた葬儀だけはやりたくないもの。

 他社に追随が不可能というレベルのサービスシステムの構築。これらが一方で認識されてきているのである。 弊社の「高級」という社名を承知され事前相談にこられる方が増えているが、すべての方が「相談することが出来てよかった」とおしゃられるし、その大半が弊社の葬儀に参列体験をされた方で、納得できる提案には感謝の言葉まで頂戴する。

 社葬の減少傾向の中で、特徴的なことに限られた方々だけの「偲ぶ会」と「お別れ会」の本物志向も始まっているし、義理的会葬者の割愛という合理的英断がホテル葬流行を生んだ背景に、ホテルが会場空間だけを売りものにしてしまったことが、社葬の減少に拍車を掛けたという皮肉な事実が秘められていることも知らなければならないだろう。

2002/11/16   スタッフに感謝    NO 257

 NO 255に、北海道の苫小牧市民斎場、室蘭市民斎場が発信する「めもりあるトピックス」のことで、社長の年齢を35歳と記載してしまったが、彼は31歳。お詫び申しげて訂正いたします。

 その日の夕方に掲示板を開くと、「私は31歳です」と入っており、返信で謝罪をしておいたが、彼の発想とリーダーシップが素晴らしく、そのパワー溢れる説得力に40歳以上のイメージを抱いてしまうのは、決して私だけではないと思っている。

 昨日、サイパンのホテルに勤務している姪が婚約者を伴ってやってきた。3日間の滞在だそうだが、幼い頃から可愛い存在であった彼女に、明日の葬儀とお通夜が終了後、久し振りに歓待の食事でもと考えている。

 サイパンでの日本の婦人会組織への講演を、ギャラなしで依頼される話もあったが、飛行機嫌いの私に4時間の飛行は苦痛。その夜、太平洋を走る新幹線の夢を見た。

 さて、今日は、弊社のメモリアルサービス事業部近くにあるお店のお婆ちゃんのご葬儀。檀家総代さんということからお寺で行われたが、昨夜のお通夜の弔問者は、町の葬儀では考えられないご人数が来られ、今日はそれ以上の方々が会葬に来られ、愛し親しまれたお婆ちゃんの人気を再認識させていただいた。

 93歳のご尊寿。いつも弊社の女性スタッフに差し入れをくださったやさしいお人柄。スタッフ一同が「あれも、これも」と、自分達で出来るすべてのことを「かたち」として具現化。思い出写真を展示したメモリアルコーナーや、お寺の境内の木をモニュメントコーナーの一部としてデザインしたことを、ご遺族が大変喜んでくださったそうだ。

 思い出写真でのフォトビデオも、通夜と葬儀用の2本を制作。それぞれに異なったバージョンのナレーションを創作した。

 葬儀終了後に事務所に戻ると、近所の鮨屋さんから豪勢な料理が「ご当家からです」とスタッフ全員が届き、恐縮しながら「お供養」として頂戴した。

 昨夜は様々な原稿創作で苦労した。すべてが完成したのは、午前2時。やっと終わったと寝室に入ると同時に携帯電話がなった。相手は私が懇意にしている音響、照明会社の社長で、奥様のお父様がご逝去されたとのこと。すぐに担当者が動いてくれ、葬儀のスケジュールが決まった。

 この社長には、私が神経を遣う仕事には必ずチームスタッフに迎え、東京、九州、名古屋などでも大変な苦労を掛けたこともあり、特別な配慮でシナリオを制作しようと考えている。

 今月の中旬から、私は東京に3日間出掛けなければならない。そして帰阪した次の日には大阪研修会のセッティングが待っているが、出席者達への資料作りをまだやっておらず、これらの対応も大変になってきた。

 全国から交通費と宿泊費をを負担してやってくるメンバー達。彼らに何をプレゼント出来るのか。今、スタッフ達がこれらに対して取り組みを始めてくれているが、手作り的な葬儀のご要望対応も多くスタッフ全員がハードな状況で、感謝しながらお疲れモードにあることを心配している。

2002/11/15   懐かしい思い出    NO 256

 夜中のお客様が重なり発信が2時間オーバーし、日付が変ってしまいました。お許しくださいませ。

 さて、4泊の東北研修会から帰った女性スタッフ。彼女から研鑽してきた内容報告を受けたが、貴重な体験から多くのことを学んできたようで、ご指導をいただいた先生方に衷心より感謝申し上げる次第です。

 そんな彼女が、「これ?お金ですか?」と言って。1枚の硬貨を見せてくれた。

 それは、手にした瞬間「懐かしい」と思うもの。穴のない5円硬貨ではないか。
 磨り減って消えかかっている文字をよく見ると昭和24年とあり、私が2歳の歳に発行されたものだった。どうやら10円と間違ってどこかで紛れ込んだものだろう。

 小学校の1、2年生を伊勢で過ごしたと過去に書いたが、その当時、試験管に割り箸を入れて凍らせたアイスキャンデーが1本「2円50銭」。1円札3枚で50銭硬貨をお釣りに受け取ったことをはっきりと記憶している。

 そんな頃、大金であった聖徳太子の1000円札を手に、オヤジの命でタバコを買いに
行き、途中で落としてしまって大変なことになった思い出が浮かんだ。

 頼りない私のことを心配していたのかも知れないが、その落とした1000円札は、親の知恵で何かの包装紙で包まれてあったところから、私が通った道を家族が探すとすぐに発見することが出来、叱られただけで済んだが、今の時代に換算すると大変な金額。私の苦い経験として心の片隅に刻まれていた。

「三つ子の魂」という言葉があるが、伊勢で育った頃のことは鮮明に覚えており、あれから50年も経ったという感慨に耽ってしまった。

 今月の初め、帰ってきた孫を伴って近くの銭湯に行った時、私が飲んでいたラムネを欲しがり、少しだけ飲ませたところえらく気に入ってしまい、娘にこっぴどく叱られたが、ラムネも小学生時代を思い出させてくれる懐かしい飲み物である。

 当時、ラムネは10円。みかん水が5円だった。近所に時代劇マニアのオジサンがおり、よく映画館に連れて行って貰ったが、テレビが世に登場しても、映画館で飲んだラムネやみかん水は格別に美味いものであった。

 高校2年生の時に沖縄に行き、初めてコーラというものを飲んだが、その時、日本の味であるラムネが勝っていると本気で思ったもの。そんなラムネは、今、1本80円。高いか安いかは分からないが、思い出や懐かしさはお金に換算できないもの。また孫がやって来たときに飲ませてやろうと思っている。

 今日は、変な話題となって申し訳ないが、小学校6年生時代の「たこ焼き」の価格を覚えているので紹介しよう。

 当時、10円で8個もあった。素焼きのお好み焼きが5円。それが今ではどうだろう。近所の有名な「たこ焼き屋」さんでは、すこし直径が大きいたこ焼きではあるが、15個500円となっている。

 結びは、葬儀で参りたい。
弊社が指定店の一社となっている大阪市規格葬儀だが、今は確か「菊級」で28万円程度。何かの文献で記憶している当時の金額は、なんと「7200円」。

 呼び出し電話が当たり前の時代の独り言といたします。

2002/11/13   私がモデルに?   NO 255

 この「独り言」をご訪問くださる方が増え、信じられないアクセス数で震えている。

 そんな中に、「過去ログを是非」というメールが入っていた。
<どうして、見られないのだろうか?>
 そう思って過去に遡ってみると、確かに見ることが出来なくなっている。調べてみると最新ページから150日分しか掲載されず、毎日更新の裏側で、毎日削除されていることがわかった。

 11月9日付け『NO 251』で、「PCからCDへの落とし込み」のことを書いたが、私のパソコンの中に今年3月1日から初めた『NO 001』からすべてが入っており、プリントアウトして送付させていただくことにした。

 一方で、日本トータライフ協会のページで毎日更新中の「必見 コラム 有為転変」だが、弊社へのアクセス数をはるかに超えるご訪問者があり、あちらの一部の原稿に対する責務も大変である。

 現在、協会のメンバー各社のそれぞれが、コラム的なものを発信することが増え、北海道苫小牧市民斎場・室蘭市民斎場の「メモリアルグループ トピックス」。高知県おかざき葬儀社の「ほっと一息」。熊本県落合葬儀社の「もっこすかわら版」などがあり、東京の井口葬儀店、株式会社エチュードでも、スタッフ達が「コラム 国分寺通信」を始めている。

 それぞれに特徴がある。この「独り言」は支離滅裂の駄文の列挙だが、上記メンバー達の発信内容は、私に不可能な趣を感じ、日々に影響を感受している。

 おかざき葬儀社の「ほっと一息」をご覧になればお分かりになるだろうが、彼女の感性は一知半解なレベルではなく、錦心繍口という感を覚え、毎作を銘肌鏤骨の世界として拝見している。

 北海道の「トピックス」は、若干35歳の社長が発信しているが、彼は宗教者の資格を有しており、私とは異なった観点で見事な文章表記を見せてくれている。

 そんな彼が、メンバー掲示板に4日間連続で「味」のある書き込みをしていたが、その中にとんでもないことが記されている。今月の大阪研修会で、若手メンバーがプロジェクトチームを結成し、久世栄三郎の「偲ぶ会」を行うと言うのである。


 私は、これまでに多くのシミュレーション葬儀を行ってきたが、送られる対象となるのは初めてのこと。彼らがどんなシナリオを構成してくれるのか楽しみだが、日本の葬儀の最先端ノウハウを結集してくることは確実で、参列するメンバー達の体感も貴重な研鑽になると思っている。

 私は、当日、「空々寂々」とした主人公として祭られるつもりだが、「同気相求む」の研修会で、宗教者である彼が、「無法の法」をどのような「かたち」として表現してくるかが最大の興味でもある。

 ここで皆様に情報のプレゼント。喪中葉書のシーズンですが、明日の「有為転変」に秘策をしたためています。ご参考になれば幸甚です。
 ご訪問の場合は、当HP内のサイトマップで「日本トータライフ協会」からお越しくださいませ。

2002/11/12   大 阪 弁     番外編    NO 254

 これまでに多くの司会者達を指導してきた。ブライダル産業の変化を背景に、ホテルや結婚式場専属の司会者の転換も増加の一途。司会者団体のセミナー講師の依頼も多い。

 そんな中で、印象に残っている女性司会者が30人ぐらい存在するが、それぞれを育てる際、もっとも力説したのは意識改革で、「葬儀の司会は、『披露宴の司会』ではなく『結婚式の司会』であり、ブライダルの世界以上に責任が重い」ということであった。

 九州のある女性司会者の教育に手を焼いたことが懐かしい。彼女は、ナレーションに興味を抱き、様々なテクニックを教えたが、方言イントネーションからの脱却が難しく、「遺族から喜ばれています」と、変に自信過剰になって抵抗感を抱いてしまったのである。

 ある時、「遺族の大半は地元の人。会葬者の大半も地元の人」という意識改革を求め、「他府県から参列される方々にも納得いただける話術を学ぶべきだ」と教え、彼女のレベルには「説得力が欠如している」と方向修正を強く求めた。

 彼女は、涙を流して反論してきた。それは、きっと悔し涙であった筈。しかし、このままでは、彼女が一流の世界に到達することは不可能。私は、続けて次のようなきつい言葉を浴びせた。

「この地域にもテレビ放送がある。ニュース番組も放映されている。NHKのアナウンサーのイントネーションも耳にされている筈だ。彼らとあなたのイントネーションの違いは、参列者のすべてが感じている筈。それを理解できないなら司会の仕事を辞めるべきだ」

 そう言った時、彼女の涙の奥にある瞳がキリッと輝き、「間違っていました」と素直に頭を下げた。

 彼女の努力がそこから始まった。半年ぐらい経った頃、「明日、大阪に参ります。テストしてください」という電話があった。

 次の日、私の事務所で彼女が持ってきたシナリオを本番さながらに読み上げてくれたが、見違えるような進歩を遂げており、その苦労と尽力を認めて褒めた時、前とは異なる色の涙を浮かべていた。

 私は、そんな彼女にプレゼントを考えた。それは、同じシナリオでもBGMによって言葉の表現が変化するという体感で、私の秘蔵の音楽4曲での研修をさせてみた。

 それは、まだ彼女のレベルでは無理な技術トーク。自分でそれを感じた彼女は、「3ヶ月ください。挑戦してみます」と意欲に燃える嬉しい言葉を返してきた。

 あれから十数年。彼女は、今も葬儀の司会を担当しているが、今春に会った時、次のような「独り言」らしきことを言っていた。

「近付いただろうと思ってお会いすると、また遠い世界のレベルを感じてしまいます。司会って、日々に変化しているのですね。先生もどんどん進化されているんだ」

 弊社の女性社員を司会者として教育しているが、やっと世の中に通用する時期になって、「寿退社」と「おめでた退社」の寂しさは、私にしか分からない涙の物語である。

 全国の司会者を個人的に教育することも多いが、関西弁と東北弁には苦労が多く、受講者自身が苦労されているようだ。

2002/11/11   大 阪 弁   後編   NO 253

 苦笑いしていたオヤジの表情が困惑し始めた。とても冗談とも思えないパワーが奥様にあり、ご住職が天井を見ながら固まっておられる。宥めても無理との判断をされているのかも知れない。

 そうなると、止めるのは私しかいない。
<直説的ではなく間接的に外側から包囲してまとめるべきだろう>
 私は、そんな思いを抱きながら、ある作戦を思いつき、決行してみることにした。

「他のお客さんがやって来られたら大変ですし、ちょっと方向を変えましょう。今から3分間、私の話を聴いてください」 

 店内が静まり返った。誰も言葉を返さない。それは、「3分間」という発言に秘められたテクニックがあった。

 通夜での説教には、「長いのでは?」との心情が必然的に生まれ、いかに義務とも言えど、聞く側の姿勢が完成していないことを理解しなくてはならない。そんな時、冒頭の「時間」の宣言に効果があるのだ。

『皆さん、今日は、お婆ちゃんのお通夜にご弔問をいただき、おばあちゃんもきっと感謝をされておられることでしょう。私は、明日の葬儀の導師をつとめますが、今、通夜のお経を唱えながら、お婆ちゃんとの生前のやりとりを思い出していました。お婆ちゃんが死を迎えられたことによって、私や、ここにおられる皆さんが生きていることを知る機会ともなったのです。今から15分間。そんな命の機縁についてお話をいたします』

 プロローグにあって時間の開示公表は、環境の完成に対する最大の効果がある。「そんなことを説教の場に持ってくるな」と、宗教者に叱責されるだろうが、講演や説教のキーポイントは、入り口での「聴いてみよう」という「興味の発生」と「時間の開示」にあると言っても過言ではない。これらは、結婚披露宴の祝辞にも明らかのように、義務は時間の経過によって怒りに変貌することもあり、無言のブーイングを誕生させる危険性を秘めているのである。

 さて、私の3分間だが、次のようなことを言った。

「ご住職のお説教は下手ではありません。しかし、説得力というところにひとつの問題があることも事実です。今からご体験いただくことでお気付きになる筈ですが、その答えは『大阪弁』のイントネーションにあるのです。私達の愛する大阪弁は、会議などでの発言に明らかなように説得力が低く、重みが欠如してしまうものなのです」

 これまでに何度か拝聴したご住職のお説教。それは、確かに下手ではないのだが、終始大阪弁で進められ、まるで落語の世界に化している思いを抱いており、失礼で僭越極まりない発言だが、奥様の心情を抑えることを目的に提起することにした。

「奥様がご要望されたナレーションはいたしませんが、ここで、私が発言したことについて、責任上から実験をやってみましょう」

 私は、ナレーターとして、次のナレーションを標準語と大阪弁の二通りでやってみた。
 内容は、都はるみさんのヒット曲「大阪しぐれ」の紹介で、日本人好みの「五七調」バージョン。それぞれのイントネーションは、「w」型と「m」型であった。

『泣いて別れた北新地。グラス片手に呑む酒は、なんと寂しい一人酒。外の時雨が目に映る』

「かっこええわ。やっぱり超一流のプロ。大阪と標準語のイントネーションの違いがよく分かるわ。説得と納得にはっきりと差異を感じたわ」 

 奥様はご機嫌であった。
そんな時、「わてに、標準語は無理やがな」。住職のそんな呟きが聞こえてきた。

2002/11/10   大 阪 弁   前編   NO 252

 通夜を終えて帰宅途中、なじみの料理屋に寄ると、予想もしなかった方と逢ってしまうことになった。

 おられたのは2人の女性。どちらも、さっきまで私が担当していた通夜に弔問されており、この店に1時間前頃に来られたそうだ。

 お2人の内の1人は、あるお寺様の奥様。私がカウンターでオシボリを手にすると同時に、今日の通夜で行った私のナレーション談義が始まってしまった。

 これは、故人の思い出の写真を編集した「フォトビデオ」を放映し、私が「生」で約5分間のナレーターを担当したもので、ナレーション内容は、「命の尊さ」「参列者にもこの日がやがて訪れるという自身への哀れみ」「故人の死が無駄ではない」「遺族への癒しと慰めの願い」などをシナリオ構成したもので、「ただ感動」のお言葉をお2人から頂戴することになった。

 さて、ここからが問題であった。お寺様の奥様が携帯電話で「あなたも来なさい」とご住職を強制的にお呼びになったのである。

 私は、正直言って、逃げ出したくなっていた。このご住職は恐妻家。来られてから交わされるであろう会話に、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 住職は、それから20分ぐらいでやって来られた。
私の横に座られ、「まずは一献」とおっしゃられたところへ、奥様の言葉が割って入られる。

「あなた、もっと勉強しなさいよ。今から久世さんに教えていただくのよ。説教のテクニックを」

 奥様の勢いを心配された隣席の女性が、クッション的な発言でフォローされる。

「奥様のおっしゃりたいことは、プロの説得力ですよね。納得の出来る言葉と説得出来る表現力。そういうことですよね。今日は、私も感動しましたわ」

 正直に申し上げるが、このナレーションのパターンを始めてから、まだ数回目であった。葬儀の当日のナレーションは、どうしても故人の生い立ちを中心とする人生表現となるが、通夜と同じでは拙いとの思いから、通夜バージョンを新しく構築してみたのである。

 この住職とは、何十回も葬儀をご一緒したことがあり、私の当日バージョンはご存じだが、それを言い訳にされたところで、また奥様から噛み付かれた。

「私だって何度も久世さんのナレーションを拝聴しているわ。今日のお通夜は、それらと全く違っているの。初めて聴いたわ。きっと新作よね?」

 住職は、黙ってビールグラスを見つめられ、事の成り行きを眺める料理屋のオヤジは苦笑で固まっている。

 そんな時、奥様がとんでもないことを言い出した。今、ここで、ナレーションをやって欲しいと言われ、隣席の女性まで手を叩き出したからたまらない。私は、すぐに制する発言をした。

「あれは、故人の遺影が存在して初めて出来ることなのです。それにBGMなくして出来るものではないのです」

 そうお返しすると、お酒の勢いもあったのだろうが、びっくりする言葉が飛び出した。

「ご遺影? オヤジさんを故人にしましょうよ。音楽? 流れている有線のチャンネルを変えましょうよ。何か悲しいイメージの曲を探してよ」

         明日に続きます

2002/11/09   スタッフの帰社    NO 251

 この「独り言」を打ち込もうと思いパソコンを開け、ふとページの左下を見て驚いた。

 A4で450ページにもなっている。CDにでも落とさなければと考えているが、何かしらこのPCの中に残しておきたい思いが強く、パンクするまでやってみようと落とさないことにした。

 さて、今日の葬儀は、明治39年生まれで97歳の方。曾孫さん達に囲まれた静かな雰囲気の葬儀をと考えていたが、とんでもない「騒音」が存在していたのである。

 それは、空を通過する飛行機。式場の真上が航空路になっており、数分間隔でやって来る。その騒音による環境空間の破壊は凄まじく、正直言って参ってしまった。

 伊丹空港へ着陸する飛行機が段々と高度を下げるのは、奈良県上空の西名阪高速道路にある穴虫トンネル付近で、この辺りで1000メートル以下となり、そこから伊丹空港へ直進するわけだが、今日の式場がこの間の伊丹空港寄りにあり、おそらく500メートル以下で飛行しているのだから大変だ。

 それぞれの飛行機には、数百人ずつの乗客が搭乗されている筈。その方々は、真下で葬儀が行われているという意識など誰一人として抱かないだろうが、自分が誰かに、また何処かに迷惑を掛けていないだろうかと考えてみると、意外なところで加害者となっていることもあるという視点を持つと人生も変ってくるかも知れない。

 数日前から寒気団の影響で冷え込んでいる。お寺や地域の会館で行われる葬儀には暖房設備が最高のもてなしになるだろうが、会葬者全員に行き当たるということは至難である。    
そんなところから式場内部の情報伝達と参列者の焼香開始時間の開示。そして、「お手持ちのコートをお召しください」というアナウンスも有効なサービス提供となろう。

 日本トータライフ協会のメンバー掲示板には、毎日全国の情報が飛び交っているが、厳しい北海道の寒さが文章からでも伝わってくる。

 数日前から研修を目的に東北へ出張中の女性スタッフが、今日の午後に帰社。かなりの冷え込みを体験してきたようだ。

 彼女は、羽田経由で山形に向かったが、羽田行きの出発が航空会社の事情で遅れ、仕方なく羽田発秋田行きに搭乗し、秋田から鉄道移動を余儀なくされ、ホテルに到着したのは夜遅く。きっと心細い思いをしたに違いない。

 私が彼女に与えたニックネームは「ミス・ホスピタリティ」。担当したお客様すべてからそんなお言葉を頂戴するからで、弊社の大切かつ重要な「人財」となっている。

 東北研修で得ることになった貴重な体験が、悲しみのご遺族にプラスとなって活用してくれることを願っているが、今回えにしをお結びいただき、ご教導をくださった関係ご一同様に衷心より感謝を申し上げながら、私に出来るお返しを考えなければと思っている。

2002/11/08   貧者の一灯     NO 250

 葬儀に携わる仕事で人生を過ごす私は、宗教者ではないが「葬儀<者>」であると自負している。

 様々な宗教の存在がある以上、それぞれの本義について研鑽をすることも義務だろう。

 初めは「広く」「浅く」というところからスタートしたが、葬儀の体験を通じて進んで行くと、その宗派独自の素晴らしさを知ることになったが、突き詰めると「矛盾」にぶち当たることも多くあった。

「葬儀は、このようにあるべき」「墓は、こうするべき」
 そんな作法が多く存在しているが、世に宗教が誕生する前から人の死があり、生活の知恵として生まれた慣習のうえに人が作り成り立ってきているように思えてくる。

 21世紀を迎え、社会の変革が様々な分野で始まっているが、今、葬儀の世界に吹く変革の風は非常に強いもの。宗教者にとって「逆風」だと感じるのは私だけでない筈だ。

 葬儀に関する世界は、近い将来にどのようになるのか。そんなことを考えていた時、次のような恐ろしい予測をした人がいた。

<寺と檀家の関係の崩壊・・住職と檀家内の故人との関係への移行>

 つまり、過去ログにある産経新聞の記事にあった見出し、「檀家であるが信者でない」という傾向が強くなり、宗教を信仰する前提に「住職」個人を信仰する姿勢が強まり、真の「宗教<者>」がキーワードになってくるのは確実であると断言していた。

 幼い頃、あるお寺さんから拝聴したお説教が印象に残っている。テーマは誰もが知られる「貧者の一灯」であり、幼心に強烈なインパクトを受けたことを覚えており、私の今のボランティア精神に大きな影響を与えてくださったと思っている。

 この「独り言」の訪問者には、お若い方々も多く、その方々のためにそのストーリーをしたためるが、幼い頃に耳にした物語調でやってみたい。

<昔々、仏様のために灯火を持って集まるという日があった。金持ち達は、驚くような大きさの装飾付きローソクに火を点し、会場にやってきて競い合っている。そんな中に1人の貧しい女性が、小さくて貧相なローソクを隠すようにして持ってきていた。やがてお祭りが始まった。しばらくすると強い風が吹いてきて、次々にローソクの火を消してしまう。
金持ち達の大きなローソクもすぐに消えてしまい、風がいよいよ強くなってきたが、そんな中に1本のローソクだけが火を点し続けている。それは、彼女のローソク。みんなの注目が集まる。それは、お金がない彼女が自分の髪を切り、売って得たローソクだった>

 私は、お釈迦様物語が好きで、解り易く解説された書物から仏教に入って行ったが、その心の扉を開けてくださったのが「貧者の一灯」である。

 その時のお寺様のお説教を聞いていなければ、きっと「葬儀<者>」ではなく「葬儀社」になってしまっていたと思う。

 最近、お通夜でのお説教を寂しく感じている。大都会では少なくなってきているし、参列者にも抵抗感が生まれてきていることを危惧している。

 そんな中で、すべての人が納得される説教は難しいだろうが、視点を変えれば必ず道があると提起したい。

2002/11/07   今日の出来事     NO 249

 今日のご住職の葬儀で、久し振りにお会いする方が東京から会葬に来られていた。
この方は、東京を代表するT斎場の役員さんで、この斎場のオープニングセレモニーを私が担当したというご縁があった。

 多くの会葬者にお見送りいただきながら、還浄されたご住職の葬送の儀式が終えられた。
火葬場の炉の扉が閉められる時、ご住職とこれまでにご一緒した時の思い出が甦ってきた。 
 ご住職は、韓国ソウル市の名誉市民でもあられ、そのえにしになったのが、歴史に名高い韓国に嫁がれた皇室の「李 方子」様のご存在。私も方子様直筆の「和」の書を頂戴し、大切に自宅でお飾りしているし、お食事の場に何度か同席させていただいたこともある。 


 さて、話題を変えるが、友人を通じて、ある方からホテルでの偲ぶ会のプロデュースを担当することになった。

 この方がホテルに依頼をされたのは10日ほど前だそうで、ホテル側の対応に疑問を抱かれて行動され、私の友人のアドバイスでえにしに結ばれたということである。

 大阪の著名なホテルが提案された偲ぶ会。それは、次のような式次第であった。

出席者は、入場時に献花の花を受け取り、そのまま祭壇に供えてから着席する。 
 続けて司会者の開会の言葉で黙祷を捧げ、すぐに2名が追悼の言葉を捧げる。
 これらを終えると施主の謝辞。故人の友人の献杯発声で食事が始まる。

 上記の何処が「偲ぶ会」なのだろうか。信じられないほど低次元な集いであり、故人と主催をされるご遺族があまりにも気の毒に思えてならないところだ。

 ある大手ホテルの経営者が、「ホテルは、儀式たるものは行なうべきでない」と断言されているが、結婚式をせずに披露宴だけを売りものにされる姿勢がありありと見え、神仏問わず、日本の文化の根源となる「神仏と共食」を全く無視していると断言したい。

 これらの姿勢は社葬の形式にも顕著で、参列された方々から「これは、何だ」というクレームが多く発生しているにもかかわらず、保身主義の縦社会であるピラミッド型経営姿勢に生きるホテルマン達は、誰も猫の首に鈴をつける行動に出られないようである。

 そんな彼らから「実は、困っているのです。お客様から責められるのは私達なのですから」という言葉を何度も聞かされたが、昨今流行の内部告発には至らないようだ。

 さて、上述のお客様だが、私が提案した式次第に即座に賛同され、「当日の光景が目に浮かんできます」とのお言葉を頂戴した。

 大切な存在である故人への礼節。また、悲嘆の心情にある遺族への癒しなくして偲ぶ会はないだろう。無宗教形式であるからこそ、この部分を大切にしなければならず、食事ともてなしだけをホスピタリティと考えるホテルサービスの、完全な欠陥であると指摘する。

 今度もホテルスタッフを恐怖に陥れることになるだろうが、彼らは、お客様のご満足のお声に接することになると、掌を返したように豹変することも面白いところだ。

2002/11/06   明日に向かって    NO 248

 昨日にしたためたご住職のお通夜、30人ぐらいのお寺様の勤行でしめやかに行われていた。

 かなりの冷え込みに長時間立っていると、持病の腰痛がじんじん。暖を求めてストーブの近くを何度か通った。

 そんな一方で、メンバーの掲示板の情報によると、同じ日に無宗教の葬送儀式が行なわれていた。
 
 その故人は、女性で35歳。10年前に難病の告知をされ、少しずつ病に苛まれ、迫り来る終焉の時を切々と感じながら過ごされておられたそうだ。

 担当する葬儀<者>が次のような文章を表記していた。

『彼の人の10年間は、だからこそ有意義で充実された時間を過ごされたようです。また、その10年間は、周りの方々に「愛」を捧げる日々でもあったのです。そして、この10年間は、「死」を待つ辛い時間でもあったようでした。私達は、葬儀に携わる立場にあって、出来る限りのことを捧げました。誇りある日本トータライフ協会のメンバーとして、メンバー皆様と共有することになったすべての心を「かたち」として、お悲しみの皆様の心の支えになるお手伝いが出来たように思っています』

 そんな書き込みに、女性メンバーから返信が入っていた。

『トータライフ協会メンバー掲示板がスタートしてもうすぐ1年。ここから教えていただいたことを自分なりに昇華しながら、悲しみのお客様に捧げていく。故人とはお会いしたことも、お話したこともありませんが、ご遺族から拝聴する思い出話から、故人を少しは感じることが出来るようになったと思っています。メンバー皆様との出逢いに大きな刺激を受け、今後も、より深く故人を感じることが出来るように努力いたします』

 研修会の会食で、「21世紀のキーワードは、愛と癒しだ」とメンバーが発言していたが、それらを具現化しつつあるメンバー達が全国に点在。彼らの活動は、今、お客様の体感を受けて確実に賛同されてきているようだ。
 
 ホテルマン以上の資質が求められる葬祭業のプロたる仕事。その遂行の先には、葬祭文化の向上と社会認知がある筈だ。
我々がシステム構築したオリジナルなホスピタリティサービスに限界はなく、まだまだ未発表のことが多くあり、協会の研修会で研鑽を重ね温度差が生じないことも重視しているが、次代を担う若手達の意識改革と躍進が嬉しいところだ。

 ローマ神話のビーナスの子で恋愛の媒介神である「キューピッド」の役は出来ないが、北海道から九州まで、葬送に関する「愛と癒しのハート」のプレゼントは出来るだろう。

 もうすぐ大阪研修会。いよいよ身が引き締まる思いがしているが、取り敢えず、明日のご住職の葬儀に神経を集中するつもり。

 今日の結びになるが、3日間研修で東北に出張中の弊社女性スタッフから報告があった。その地域では、夕方の5時に開式するお通夜が主流だそうで、大阪とは2時間も時間差がある。「所変われば」という言葉もあるが、実りある研修成果に期待している。
 研修をお願い申し上げた方々、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

2002/11/05   ご遷化に合掌します     NO 247   

 永いお付き合いの中で、様々なことを教えてくださったお寺様がご急逝された。

 真宗大谷派のご住職で、頭髪を毎朝剃られるというお方だった。

 ご住職は、弊社の事務所にお立ち寄りになり、よくスタッフ達に食生活についてのご講義やヨガのご指導までしてくださり、自らも玄米食を中心とする食生活を送って来られていた。

コーヒーをお出しすると、「シュガーは必要ありません。砂糖は身体によくないですよ」とおっしゃり、子供達の糖尿病や腎臓病など、大人の病気が子供の世界に広がっていることを懸念され、「雑魚を食べなさい」「カルシウムが重要ですよ」と拝聴したことが、つい昨日のように思い出されてくる。

 様々な活動にも積極的に取り組まれ、何度か東京までご一緒したことがあるが、新幹線の中でご講義くださった「宗教者のありかた」は、ご住職らしいご信念として素晴らしいことだと思っていた。

 そんな中に印象に残っていることがある。それは、納税協会の役員を永年つとめられており、宗教法人の納税についての哲学を説かれ、毎年、年末調整の時期がやって来ると多くのお寺様のご相談を受けられ、「対応に忙しい」と言われておられたこと。

 ご導師をつとめられる時のご声量にパワーがあり、暑い時期には額にいっぱい汗を流されておられた光景を何度も見た。

 ある時、ご住職の檀家さんがホテルで社葬を行なわれることになり、スケジュールの確認に伺ったことがあったが、「ホテルで葬儀を? えらい時代になったものですね」と驚愕されておられたことも懐かしい。

 私は、このご住職に感謝申し上げることがある。それは、福祉など生活に苦しい方々のご葬儀に、いつも信じられない低額なお布施で快くご導師をおつとめくださったことで、時には、ご遺族が手渡されたお布施を、そのままお供えされたこともあられた。

 そんなところから、真宗大谷派のご葬儀に必要な「紙花(四華)」を、私の手作りでご用意申し上げたが、あまりよい出来栄えでないのが申し訳ないところで、なにとぞご海容くださいますように願い上げてきました。

 そうそう、ご住職が講演された時のお話に、面白くて興味を抱いたことがあるので紹介申し上げる。

「檀家さんのお家を訪問しましたら、年老いた猫がおり、腰が抜けたように引きずって動いていたのです。ご家族から伺ってみると、いつもペットフードを与えているそうで、私はダシ雑魚やちりめん雑魚を与えなさいと教えました。なんと、その猫は、それから1週間で元気に歩けるようになったのです。自然食、カルシウムが重要ですよ」

 ご住職の還浄に、心からなるお念仏にてお偲び申し上げ、感謝の合掌で葬儀を担当させていただくつもりである。

2002/11/04   振り返ってみて     NO 246

 私の人生に大きな影響を与えていただいたのは、小学校の5、6年生の担任の先生であった。

 先生は、今で言われるところの音響マニア。当時の電蓄をご自分で組み上げてしまわれるほどで、クラシック音楽に造詣深い方だった。

 5年生の夏休み、数人の生徒が指名を受け、学校の放送設備システムを構築することになり、各教室のスピーカーの取り付けから放送室器材の操作まで手伝うことになったが、これは言葉で表現出来ないような貴重な体験ともなった。

 やがて9月の新学期。朝、昼。下校時の放送が始まり、私も放送部員の一人として何度もマイクを担当する機会を与えられたが、その当時から、マイクでのオシャベリは、他の仲間と異なっていたように思う。

 中学生の頃、ステレオに強い興味を抱き、オヤジを口説き落として高価なシステムを揃えて貰ったが、この時の口説きのキーポイントにしたのは、年末恒例NHKの除夜の鐘。その録音をするということで、鐘の音が好きだったオヤジに対して描いた策略であった。

 オープンリールの録音機を2台購入し、興味本位に様々な遊びを試してもみた。

 自分でギター伴奏を片側に入れ、それを再生しながら旋律をミキシングするなど、多重録音を繰り返しながら10人ぐらいのパートを次々に被せ、下手な演奏でも友人達が驚く構成もやっていた。

 当時は、もちろんFM放送もなくAMのモノラル放送のみ。確か朝日放送と毎日放送だったと記憶しているが、2台のラジオ受信機を用意し、それぞれが左右パートを放送。聴く側にはステレオで流れるという思い白い試みが何度かあったことも覚えている。

 そんな頃、府の関係で「若人の集い」というのがあり、多くの青年団体がパーティーの中で趣向を凝らすという催しがあった。

 我がグループで白羽の矢が立ったのが私。マントヴァーニーの華麗な音楽をバックに開催歓迎のナレーションを吹き込み、時報の音と同時に放送が始まるという仕掛けで大喝采を浴びた時の喜びは一入だった。

 頭の回転を訓練しながら健康を保つには、「歩いて足の指を鍛えること」と新聞に掲載されていたが、そこでゴルフを始め、手の指先を動かすことがボケ防止であることを知り、ハモンドオルガンを習い、50歳の手習いで再びピアノと囲碁に挑戦してきたが、多忙を極め、ゴルフも出来なくなってしまった今、私の最大の癒しになっているのは音楽と孫の存在。初老とは言え、日野原先生のお言葉に励まされ、新老人と呼ばれる世界に入って「行きたい」と願っている。

「行きたい」とは「生きたい」なのである。仕事のシナリオ創作にあって、多くの他人の人生黄昏を拝聴してきた私。今、孫が小学校に入学するまでは「生かされよう」と努力するつもりで、少しずつだが歩くことに勤しんでいる。

 同年代の多くに孫が存在し、きっと爺ちゃん、婆ちゃんとよばれているだろう。
 ゴルフが私の生き甲斐とという友人がいるが、彼が、「孫と一緒にラウンドすることが夢」と言ったが、素晴らしくて憧れる夢である。

2002/11/03   叙勲パーティーの思い出から    NO 245

 今日の朝刊に叙勲者の芳名が掲載されていた。大半が高齢の方。ノーベル賞の田中さんのようにはいかないようだ。

 これまで、叙勲祝賀会の記念パーティーの司会を何度担当したことだろうか。この季節が来る度に様々な体験を思い出す。

 葬儀社である私が、祝賀会のプロデュースや司会を担当することは不思議なこと。その大半は、受賞された方から直接のご依頼。多くが何処かのパーティーで私の進行をご体感いただいた方。
単なる「集い」や「会」とさせない私の進行、それは会場の第一部を儀式空間に神変させる「式」に特徴がある。

 これは、ご出席されて体験いただかなければご理解に至らないだろうが、この「式」の部分は、ご用意された祝辞の内容を変更された方も多くあり、特別な会場空間が完成していると自負している。

 ある盛大なパーティーがあった。出席者が1500人。料理の内容もグレードが高く、着席スタイルのフルコース。会場となるホテルの窓口担当者が心配され、1ヶ月前頃から何度も事務所に電話を掛けられてきた。

 その頃の私のスケジュールは過密状態。ホテルには次の内容のFAXを1枚送っただけだった。

『照明関係は前日の夜7時にシナリオを渡します。音響に関しては、司会台にCD、カセットデッキを準備し、手元ですべての音量調整が出来るようにお願いします』

「何方がミキサーを担当されるのですか?」
 そんな電話も掛かってきたが、すべて私自身が担当しますと返すと、「そんなことが可能ですか?」と失礼な言葉が返ってきた。

「本番前日の夕方まで時間は空きません。午後7時に照明担当者とホテル側関係者と打ち合わせに参上します」

 無責任な対応だと思われるかも知れないが、進行シナリオを前日に見れば一目瞭然に把握可能なように創作してあり、打ち合わせも20分もあれば終わってしまう筈。

 1週間前になると、主催者側の責任者である秘書室長から電話があった。「ホテル側が大丈夫ですか?と言ってきている。なんとかならないでしょうか?」と言われるが、申し訳ないが、どうにもならないスケジュールに追われていたのである。

 そこで失礼だが殺し文句を言ってしまった。「ご本人はどのようにおっしゃっておられるのですか? 私をキャンセルいただいても構いませんが」

「滅相もない。絶対にあなたでないと納得しません。そんなことをすれば私の責任問題です」

「では、あなたの責任でホテル側を納得させてください。前日の午後7時から20分で打ち合わせを済ませると」

 さて、前日の午後7時がやってきた。指定された部屋に入ると、ホテルスタッフ全員が緊張の面持ちで怒りの表情も当然のこと。

 まず失礼を詫びた私は、持参したシナリオを全員に配った。そして、「5分間で目を通してください」と言った。

 5分後、スタッフの表情が一変した。それから10分ですべての打ち合わせが終わった。

 当日の本番は、予想以上にうまく流れることになった。私が帰ろうとした時、スタッフの皆さんが「いい勉強をさせていただきました」という言葉で送ってくれた。

2002/11/02   悲喜こもごも      NO 244

 1週間前から、娘と孫が里帰り、昨日の夕方、家族で友人の料理屋を訪れた。

 彼は、私の顔を見るなり、「今日の昼に生まれた。俺も爺ちゃんの仲間入りだ」と嬉しそうに言った。11月1日生まれ、男の子で母体とも至って健康であるそうでほっとした。

 食事を始めてしばらくすると、別の友人から電話があった。「伯父が亡くなった」とのこと。この友人の結婚式の司会を私が担当したが、その時に媒酌人をつとめられたのが伯父さんである。

 伯父さんの生年月日は大正時代の1月1日。逝去されたのが11月1日。なにか「1」のオンパレードのようで、奇異な心情に陥った。

 私のこれまでの人生にあって、「1」につながる出来事が多く、1に関する日は、何かにつけ謙虚にすることにしている。

 青春時代に起こした名神高速道路の事故が11月。手首を骨折したのが高校2年の4月1日。それから5年後の1月1日には、原因不明の発病から救急車で入院。この他にも挙げれば限がないほど多くある。

 今、23時35分。この原稿を打ち終わったら明日の伯父さんのナレーションを創作しなければならない。この伯父さんが私の年代の頃に、私がご両親の葬儀を担当したことも思い出す。

 仏教の説かれる無常観そのままに、深まりゆく秋の訪れに日本の四季の移ろいを思い抱きながら、伯父さんの葬送のマイクを担当しようと考えている。

 一人の生命が誕生し、一人の生命が終焉を迎えた。有為転変の教えにあって悲喜こもごもは世の習い。日本だけでも1日に3000人に近い生と死の現実があるし、地球全体に考て見れば20万人にはなる筈だ。

 時に喜びの花を咲かせ、憂いの雨に打たれて織り成す人生模様にそれぞれの異なりはあろうが、生を喜び、死を悲しむことは生物すべてが共有するべきもの。

 人としてこの世に生まれ、与えられた時を過ごし、人としてこの世を去る。
他人の死が、やがて自身に訪れる「哀れみ」であることを知った時、彼の人の終焉の意味も深まりゆくものだろう。

 初孫が誕生した彼の顔は、これまで見せたことのない表情を感じた。その日に初めて見た初孫の顔、そして、労ったであろう娘さんへの言葉など、命の誕生を現実として体験することは人生に於ける貴重な喜びの経験。

 殺伐とした社会情勢に、人には生かされる権利と誕生の瞬間があることを忘れているように思えてならないこの頃である。

 お祝いと香典を包む我等の年代。団塊世代である私は、そんな接待交際費がいよいよ増えてきた年代とも言えるだろう。

2002/11/01   あたたかいハプニング     NO 243

 一般的な葬儀社で純粋な「神式」の葬儀を担当することは少ないもの。平均して年間で2パーセントぐらいだろうか。

 神社神道、天理教、黒住教、金光教の他にも多くの神道系宗教が存在するが、弊社では6パーセントぐらいの担当があり、葬儀社の中では神道葬儀が多い業者として認識されている。

 神道に於ける「通夜」の名称が異なり、宗教の異なりによって「遷霊式」「遷魂式」「通夜祭」「遷霊祭」と称されていることもある。

 神道での通夜には、共通する祭儀が行われる。それは、故人の霊魂を「みたましろ」に移される神事で、この間は式場の明かりをすべて消灯して行われる。

 これらを初めて体験される方がいれば、「電気が消えた」「停電だ?」「どうなっているのだ?」との声が発生することもあたりまえで、開式前に消灯の意味を伝えておく必要があるだろう。

 こんな神道の葬儀に携わっていて、いつも思うことがある。それは、電気のない時代のことで、さぞかし風情があっただろうなと推測している。

 消灯して神事が行われ、再度照明が点けられる。電気とローソクでは趣が全く異なるであろうし、このような祭儀式を構築された次代のことを慮ると、電気の時代の予測はなかっただろうし、我々葬儀社という職業の出現も考えることはなかったものである。

 神道の場合、式場での消灯のタイミングが重要で、式場の物理的事情からあちこちにあるスイッチや電源差込それぞれにスタッフを配置し、インカムで一斉にオフ、オンの指令を出さなければならないこともある。

「右前方の蛍光灯。どうして消えないのだ? 誰が担当だ?」と怒りの声を発すると、担当者がお客様の質問に対応中ということもあり、それからは、この時間帯は、「持ち場を絶対に離れるな」という強い命令を出したことも懐かしい。

 ある神道の通夜が厳粛に行われていた。斎主が入場され神事の式次第が始まった。間もなく消灯というところで5人のスタッフがスイッチのところにスタンバイ。「消灯」というコメントでそれぞれ見事なタイミングでスイッチが切られ、式場内が暗闇の世界になった。

 その時、ハプニングが発生してしまった。「怖〜い。お化けが出る」

 それは、幼い子供の声だった。続いて苦笑がコーラス化してしまった。しかし、この時の斎主さんは素晴らしい方だった。真っ暗な中で、次のように言葉を掛けられたのである。

「怖くないですよ。すぐに終わりますからね。これから、神様にお願いをして、お婆ちゃんをお迎えしていただくのですよ。お婆ちゃん、有り難う。神様、お願いしますと言いましょうね」

 子供は正直である。「お婆ちゃん、有り難う。神様、お願いします」

 苦笑が止まった静寂の中に、そんな可愛い声が聞こえた。

 通夜が終わった。「いい通夜だったね」。
多くの方々が、そんな言葉で遺族を慰められ、上記のあたたかいひとときに和やかな表情をされたのがとても印象的だった。


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