2002年 9月

2002/09/30   悲しみの表札    NO 211

 ご不幸の発生から、ご葬儀の依頼を頂戴するわけだが、先方さんがパニック状態にあり、お名前、ご住所、電話だけを伺うだけでも難しいこともある。

 これらは、お寺様やご近所の方からのご紹介の場合には少ないが、永い歴史の中には、「母が亡くなりました。お葬式をお願いします」と言っただけで電話を切ってしまわれたこともあった。

 もちろん、それから20分ぐらいして再度のご依頼があったが、非日常的なことの発生は、時には信じられないようなやりとりも生まれる。

 ご一報で参上すると、当然のように表札を確認するが、私は、この表札に様々な思いを抱いている。

 表札に明記された所帯主が亡くなられると、葬儀が終わってからどのぐらいで表札が変えられるかご存じだろうか?

 実は、数年もそのままということも少なくないのである。

 それは、核家族の時代になって、ご夫婦二人暮しの場合の防犯的な役割もあるだろうが、伴侶を亡くされた奥様は、夫の名前が刻まれた表札を変えたくない心情が強いそうだ。

 伴侶と過ごした家。家具のすべてに触れていた命と思い出。それは、言葉で表現出来ない強い絆で結ばれており、その集大成が表札となるのかも知れない。

 満中陰も過ぎ、非日常的な生活から少し悲嘆が和らぐことがあっても、買い物に出掛けて帰宅した時、「あなた、帰りましたよ」と、表札に呼び掛けておられる光景が目に浮かんでくる。

 一方で、妻に先立たれた男は弱い人が多いようだ。表札は自分自身の名前であるのに日常生活が全く機能せず、印鑑は? 保険証は? 通帳は?など、家事を任せていた人の存在がなくなると、人としての行動機能が想像以上に低下してしまうもの。

 炊事、洗濯、買い物。男の独り暮らしほど寂しいものはないだろうし、見る見るうちに老いていく姿には哀れみさえ感じるものである。

 しかし、女性は強いもの。夫を亡くされてから輝く人生への再出発というケースを、どれほど多く見てきただろうか。会う度に美しくなり、目が生き生きとされ、まるで別人という方も何人もおられた。

 偕老同穴という言葉があるが、どちらかが先に逝くのは世の定め。えにしに結ばれた夫婦が、生きている内に互いに輝く人生でありたいもの。

 こんなことを書いているが、男というものは、本当に「勝手なもの」で「寂しがりや」であることを断言する。それは、私もそうだからだ。

2002/09/29   不思議なイマジネーション    NO 210

 道を歩いている時、次の四つ角で最初に現れる人が男か女か?
 そんな想像の賭けも面白いもので、イマジネーションの訓練になるそうだ。

 人通りの多い心斎橋筋を歩いていた時、ふと、ある人物の顔を思い出してから数分すると、前からその人物がやって来て驚いたこともある。

 人は、誰もがそんな不思議な体験をしていることもある筈。

 私は、そんな体験が多く、新大阪駅、新幹線の車内、沖縄への飛行機の中など、何度も不思議な体験をしている。

 それが私に授かった能力とは思っていないが、一般的なケースより、はるかに多い不思議な体験があるように思っている。

 これらの体験が始まった最初は、20代前半の頃で、ある団体旅行で出掛けた熊本県の水前寺公園であった。

 美しい池の中に設けられた狭い通路。そこをこを通っている時、ふと、ある女性の顔が浮かんだ。
 
 彼女は、私の家から自転車で10分ぐらいのお菓子屋さんの娘さん。とてもチャーミングで、友人達と何度か合同デートをしたこともあった。

 さて、水前寺公園の狭い通路。庭園の中に小高い山のあるところで、その女性が男性と共にやって来たのである。

 それは、全く予期せぬ偶然で、彼女は新婚旅行ということだった。

 一方で、東京のホテルでエレベーターを待っている時、また、ある人物の顔が浮かんで来た。
 その人は絶対にこんなところで会うことになる人ではなく、何の気にもしてはいなかったが、扉が開いて最初に視線があった人がその人物。知人の結婚式ということだった。

 事務所にいる時にも不思議なことが多い。困った問題だなと悩んでいると、その解決にもっとも適された人物が、本当にタイミングよく来社されて来るのである。

 そんな話を他人にすると超能力かも知れないと言われるが、いかに神仏に関する葬祭業に従事しているからといって、そんな能力が培われるとは思っていない。

 ある専門家の分析では、多くのことを考える人にこんなケースが多いそうで、何事にも心配性の私だからそうなっているのかも知れない。

 新大阪で駅弁を買い込んで「のぞみ」に乗った。高槻付近で弁当を広げて、お茶を買うのを忘れてしまったことを後悔していると京都に着いた。11号車の売店に足を運ぼうかと思っていると、通路を挟む席に著名な茶道の宗匠が乗ってこられ、すぐにお食事を始められたが、缶のウーロン茶を買っておられたのが印象に残っている。

2002/09/28   札幌での思い出    NO 209

 数年前の冬のある日の夕刻、厳寒の千歳空港に降り立った。
地下のJRの快速に乗車し、札幌駅に向かっていた時、会社から携帯電話が鳴った。スケジュールを知っている筈なのに不思議だと思いながら、何か胸騒ぎが生まれた。

 車内では抵抗があるし引き返すこともあるところから、次の停車駅で降り、暖房された駅構内の公衆電話で会社に電話を入れた。

 案の定、緊急を伴う内容で、私にしか対応不可能なお客様のご不幸ということだった。
「社長は、今、札幌へ出張中です」では対応出来ず、今晩中にどうしても会わせて欲しいとのこと。

 皮肉な出来事に苦渋の選択を強いられるということだが、答えはすぐに決まっていた。旅費が無駄にはなるが帰阪するということである。

 すぐに札幌のホテルに電話を入れ、事情を説明し、数日後に改めて参上することを伝え、千歳空港に引き返し、大阪行きの最終便に乗った。

 それから4日後、私は、また千歳空港に降り立った。次の日が友引にあたり、今回は目的が達成出来るという思いもあった。

 札幌市内のホテルとの打ち合わせがスムーズに終わり、少し時間に余裕が生まれ、ふと、札幌近郊に在する協会メンバーの会社を訪問する気になり、電話を入れた。

 利用する交通機関はJR札沼線。札幌駅から各駅停車で12番目の駅に向かうことにし、2両連結の古風なディーゼルカーに乗った。

 外は少し吹雪気味。車窓のガラスの外は凍りつき、内側の曇りと併せて全く見えない状況だが、シートの下に設置された暖房が強烈で、何時の間にかうとうとしていた。

 通り過ぎてしまったら大変だという思いを抱いていたが、それからしばらくしてハッと目を覚ました時、列車は何処かの駅に停車していた。

 ガラスの曇りを手で拭い、外を見る。パッと目に入ったのは線路を跨ぐブリッジ。そこに目的の駅の文字が目に入り、急いで飛び降りる。瞬間に扉が閉まり列車が発車した。

 改札口を出る。ふと、駅名を見ると目的の駅ではない。どうやら4駅ほど手前で下車してしまったようだ。時刻表を見ると30分ほど待たなければならない。どうしてこんな誤りがと、さっき目に入ったブリッジの看板を確かめて見た。

 そこには「**駅方面」とあり、目的駅に行く番線の表示となっていた。

 猛烈な寒さ。駅の外は雪より凍りの世界。私は、駅員さんのアドバイスからタクシーで行くことにした。

 外は、少し風が出てきた。乗ったタクシーが石狩川を渡ろうとした時、運転手さんがおかしなことを言い出した。「もう1時間もしたら、帰りは、この橋を渡ることが出来ないかも知れませんよ」

 その理由は、風の影響に生まれるパウダースノーの舞い上がりで、自分の車のボンネットさえも見えない状況もあるそうで、<帰られなかったら大変だ>と、初めて体験しそうな自然の猛威に恐怖感を抱いてしまった。

 訪問先に着いた。用意をくださった食事もそこそこに、用件だけを済ませ、待たせてあったタクシーに飛び乗り、札幌駅に帰ってきてしまった私。

 相手側の社長さんご夫婦に、大きな「借り」が生まれた出来事であった。

2002/09/27   安中榛名駅での思い出    NO 208

 群馬での講演の際、妻を伴って行ったことがあった。いつも伊香保温泉の旅館に宿泊していたが、一度、高崎駅に戻ったところから、伊香保以外の温泉旅館に行くことにし、駅の構内で時刻表の巻末にある旅館案内のページや、観光案内所のパンフレットに目を通して考えていた。

 そこで、私の目に留まった文字があった。それは「舌切り雀の伝説」「雀のお宿」であり、やがて電話で予約を入れ、35分ぐらいの道をタクシーで向かった。

 駅を出発した時に明るかった外も、陽が落ちた夕暮れ時、周囲がすべて竹やぶで、川の音が聞こえる旅館に到着した。

 平日ということもあっただろうが、館内は閑散とし、他のお客さんの姿が見当たらない。

 やがて部屋に通され、しばらくして食事となったが、それが終わると退屈でしかたがなく、館内の散歩に出掛けた。

 5分ぐらいの時間を過ごすと冷え込んできて、少し寒いぐらいになってきた。廊下を進むと中央にストーブが置かれてあるバーが目に止まり、中に入った。

 相手をしてくれたのは、若い男性と部屋食の担当してくれた仲居さん。今日は閑古鳥が鳴いている状況ですと教えられ、自分ひとりで広いバーと二人を占有していることが申し訳なく思い、水割りを1杯だけ飲んで部屋に戻った。

 曲がりくねった廊下も、誰一人として会うこともなく、何処からの声も聞こえてこないという恐怖心が生まれ、とにかく大浴場にでも行くことにした。

 暖簾をくぐると履物が1足もなく、誰も入っていないという証し。脱衣場でも当然、1人ぽっち。急いで露天風呂に入ったが、ここでの孤独は体験したくないひとときであった。

 残るは、部屋でのマッサージ。愛想がよく技術の卓越された2人のマッサージさんのお世話になったが、今日は初めで最期のお客様ですという言葉を聞き、ダブルでお願いし、この温泉に伝わる伝説などを拝聴することになった。

 次の日の朝、長野へ向かうところから、長野新幹線の安中榛名駅に向かった。幾つかの峠を越え、草原を走行し、やがて周囲に何もない安中榛名駅に着いた。

 前もって時刻表を調べてあり、15分ぐらいの待ち時間という状況だが、駅構内の切符売り場前の空間に驚く物が存在していた。ゴルフのパター練習場で、3メートル、5メートル長方形で、センターが盛り上がるアンジュレーションがあり、ボールが10個ぐらいとパターが数本あった。

 夫婦で挑戦していると、地元のおじさんらしい2人の方がやって来られ、「ここのパターは難しかろう」と声を掛けられ、しばらくの間、共にゲームに興じることになったが、のどかな時間を過ごすことが出来たと思っているし、また挑戦に行ってみたいと思っている。

2002/09/26   燕三条駅での思い出

 この「独り言」へのアクセスアップの影響からだろうか、最近、全国からの講演依頼が増えているが、スケジュールの調整がうまく噛み合わず、先延ばしとなっているケースが多く申し訳ないところで、全国を積極的に回っていた頃が懐かしい。

 上越新幹線が開通した頃、新潟県の大きな団体から講演依頼があり、電話を受け取った女性スタッフが、おかしなやりとりをやっていた。

「ですから、飛行機はダメなのです」

 横で聴いていると、先方は、「大阪伊丹空港から新潟行きの飛行機を利用すれば、1時間で到着することが出来るし、当日の朝の出発で間に合う」とおっしゃっているようだ。

「絶対にダメなのです。二つの条件がございまして」

 彼女がそう言っているのは、私が大の飛行機嫌いであることと、欠航の場合に穴を空けることはプロとしてしたくないということで、前日入りの交渉をやっていたのである。

 その当時、大阪から新潟までの列車と言えば特急「雷鳥」で、距離は東京と大阪間より遠い580キロもあり、約7時間の列車の旅ということになる。

「主催者側に負担を掛けることはございません。講師は与えられた時間の1時間前には到着し、終了後から1時間のお付き合いはいたしますが、それ以外はすべて講師のプライベートタイムということも条件となります」

 そんなやりとりの後、電話を切ってすぐに彼女と私のやりとりが始まった。

 私の講演の開始時間は午後1時。雷鳥で行くとすれば、夜明け前に乗らなければならないが、ここでふたつの問題が出た。そんなに早く発車する雷鳥がないことと、長時間の乗車に耐えられないという私の我がままであった。

「では、前日の午後の雷鳥で新潟に行かれ、新潟のホテルで1泊というのは?」

 それも遠慮したいもの。7時間以上も列車に乗っているのは苦痛であると伝えると、彼女が折衷案を出してきた。

「午後に新幹線で東京へ。東京のホテルで1泊。次の日の上越新幹線でいかがでしょう?」

 先方の案内プリント作成にも関係し、早急に返事を伝えなければならず、取り敢えず、その行程で行くことになったが、先方から新しい注文が返ってきた。燕三条の駅で降車。迎えに参上するというのである。

 そこで浮かんだ問題が、私と迎える側が顔見知りでないということ。それをどのようにクリアするべきかに移ったが、相手側は次のように応えてきた。

「間違いなく発見出来ます。プラカードでお名前を記し、改札口でお待ちいたしますよ」

 燕三条がどんな駅か、さっぱり検討のつかない我々だったが、結論はそういうことで収まった。

 さて、当日、東京のホテルを出て東京駅に向かい、上越新幹線に乗った。燕三条は新潟駅のひとつ手前の駅。列車がスピードを落とし駅に到着した。<会えるか>と心配していた私は驚いた。駅の回りは田や畑ばかり。この駅で降車したのは私を含めて3人だけ。

 やがて改札口に向かうと、閑散とした構内に私の名前を書いた大きなプラカードを掲げた方がポツンと立っておられ、数人のお客さんや駅員さんの視線を浴び、本当に恥ずかしい思いをしたのである。

2002/09/25   小説 「幕末物語」  完結編   NO 206

 耳には聞こえなかったが、賂のやりとりのような光景を垣間見た大家は、恐怖感を抱いていた。もしも、これが偽者ということになれば、<自身へのお咎めが>という心配でならず、大家という立場を逃げ出したいぐらいだったが、男が大店の主で賂という手段も考えられる。それだけが安堵の種となっていた。

 しばらくすると、先生が神殿中央に座した。そして、手をしきりに振るが、ずっと無言である。男に言われた役人達も正座し、静かな時間の中で先生の手だけが動いている。

 中の成り行きを察知したのだろうか、外の連中も静まり返っている。それらは、順に伝えられていくからか、人垣を除序に無言に変えていく。

 少しの時間が流れたが、何の変化も起きない。役人達が痺れを切らしそうな頃。男が立ち上がって喋り始めた。

「先生は、今、神事の始まりにお払いをなさいました。これから本儀式に移られます。無言のお祈りを捧げられますが、しばらくされると神様が降誕あそばされます。その際、先生は、私を呼ばれ、神様のお言葉を伝達されます。では、よろしいですかな?」

 中にいる連中に緊張が走る。いよいよ何かが起きるのである。
 男が「では、先生、お願い申し上げます」と声を掛けた。

 先生が大きな手振りで神殿を崇めるような行為をする。しかし、何も起きない。
 また、男が立ち上がった。そして、面白いことを言った。

「申し訳ございませんでした。今日は、まだ、初めの日で、この神殿が清められていなかったことを忘れていました。これは、私が忘れていたことで、先生の問題ではございません。早速にお清めを行います」

 男は、丁稚から袋を受け取ると、先生の横に立ち、袋の中から白い粉のようなものを榊に向かって振り掛け、すぐに、下がると、「先生、お始めください」と大きな声で言った。

 先生が、また手を動かし始めた。しかし、何も起きない。そう思った時、変化が起きた。先生の手が届くことのない距離に置かれた榊が、突然にガサガサと揺れ出したのである。

 男が先生の側に近付き、耳を寄せる。先生が何かを告げているようだ。
 それが済むと、男が立ち上がって伝達ということで解説を始めた。

「ご覧のように榊が揺れた時、神様が降誕されたのです。この一段高いところは聖域と申し上げ、先生以外は上がれません。私はその代弁者として、伝達のお言葉の時にしか上がれません。今、先生からのお言葉が私の耳に伝わりました。今晩、江戸市中の西の方で火事が発生する。互いに声を掛け合い火の用心につとめなさいとのこと」 

 男の言葉を耳にしたのか、先生が神殿を向いたまま頷いている。男が言葉を続ける。

「そうです、ここで、余興のことも行ってみましょう。先程、お役人様にお渡ししたもの、あれは、実は、金子でございました。先生は、その金額を全くご存知ではないのです。ここで、伺ってみましょう。先生、さて、金額は?」

 先生は、無言で手を上げ、親指と小指を付けて三本の指を示した。

「いかがでしょうか、お役人様。中身のご確認を」

 同心が紙包みを開けた。そこには3両の小判があった。みんなが驚く。ここに新しい宗教の教祖が誕生したのである。役人のお墨付き、その噂の広まりには絶大な効果があった。

 実は、先生と男はグルであり、男の描いた宗教商法は詐欺であったのである。この人物達が数日の内に大金持ちになったのは言うまでもない。

 最後に種明かし。何で榊が揺れたのか? それは、振り掛けた塩に秘密があり、花瓶の中に入っていた鯰が苦し紛れに暴れただけのことである。

2002/09/24   小説 「幕末物語」  番外編   NO 205

 中にいた長屋の衆が追い出される。二人の岡引を伴った同心が入り込み、入り口の扉が閉められる。中には、先生、豪商、大家、丁稚が残っているが、大家を除いて動揺する気配は微塵もない。「何事じゃ」と言って飛び込んだ役人達も、先生の威厳に臆されたのか急に言葉が丁寧になる。

「役目ながら申し上げる。拝見するところ、神殿の新設とお見受けいたした。この長屋だけではなく表筋にまで人が溢れ、聞き及んだところでは神の使いとのこと。最近、この江戸市中では、神仏をもって紛いなる搾取を取り込む噂も窺い知るところなり。ご貴殿達が、その類ではないとの確証を得がんがため罷り来たものとご承知願いたい」

 偽者と疑ってきている。そう誰もが思ったが、大家以外は落ち着いたもの。やがて、男が言葉を切る。

「これは、ご苦労様でございます」

 男は、過日に長屋の衆に話したことを、もう一度話し始めたが、結びの言葉で、大家が驚く言葉を発することになった。

「お役人様には、お役柄、確証なきものは認め難いと存じます。そこで、本物か偽者かということをお確かめいただくことも必要かと考えおります。これより、お役人様ご自身の目でご判断を願うということで、ご神事をご体験いただくことは如何なものでしょうか?」

 役人達の目が輝く。元から興味を抱くことであり、偽者であることを召し捕れば手柄ともなる。自身に損のある話ではない。すぐに結論となる。

「異論はござらん。役目として、是非、拝見させていただこう」

 やがて、男の指図で、丁稚が祭壇前に置かれていた花瓶を持ち、台所に下がり、水を入れていた。そんな時、男が言葉を挟む。

「お役人様達は、偽者をお召し捕りになられたこともございましょうが、この先生は正真正銘の本物でございます。現に、この私が救われましたし、手前どもの使用人の多くが驚いた神通力の持ち主でございます。今、神事の準備をいたしておりますが、それとは別に、もうひとつ余興といたしまして、これをお持ちくださいませんか」 

 男は、半紙で包んだ物を懐から出し、同心に渡した。手にした同心は、手触りでそれが小判であることをすぐに理解した。

「これは、賂ではないか」
 それは、男だけに聴こえるような小声であった。しかし、男は、以外にも大きな声で返答する。

「これは、先ほどに申し上げましたように、余興でございます。もうすぐ、その意味がお解かりになられます。もう少しだけお待ちください」

 男と同心のやりとりの間、丁稚は水を入れた立派な花瓶に榊を入れ、続いて幣を結び付け、神殿の準備が整った。いよいよ真贋を賭けた神事の始まりである。

      明日に続きます

2002/09/23   小説「幕末物語」  後編   NO 204

その日の夜、左官は男の用意した駕籠に乗って、男の店へと連れて行かれることになった。駕籠が長屋に来たのは長屋始まって以来のこと。誰も乗ったことがなく、子供達が寄ってきて代わる代わる乗り込み、駕籠の担ぎ手二人の顰蹙を買っていた。

次の日、男の命によるという大工や左官がやって来て、工事が始まることになった。
 それらは3日間の突貫工事で完成することになり、奥の間の六畳には一段高い敷居が設けられ、神殿風の雰囲気が感じるように桧造りの神棚まで作られていた。

 次の日の朝、豪商が、桐の箱を大事そうに携えてやって来た。
中には神様の言葉が記されたという見事な掛け軸が入っており、神殿の中央に掛けられることになった。

続いて丁稚風の若者が、持ってきた立派な箱を開け、中から見たこともないような立派な花瓶を取り出し、神殿の一段低い場所に設置された。

 工事に伴って、街では長屋の左官の話が広まっており、物見遊山を含めて、多くの人々が見物にやって来るようになっている。

 次の日の朝、大家と長屋の衆だけが招待され、豪商の男の説明が始まったが、全員が入りきれず、大半は入り口の外で立ったまま。

「皆さん、工事の間、先生を私の家にお招きしておりましたが、それはそれは、大変な神通力をお見せくださいました。使用人や家族の病は元より、商い相場の変動の予見までいただき、大きな儲けを頂戴することになりました。正直申し上げて、この神殿の改築費用は、たったそれだけで戻ってきたぐらいなのです。そんなところから、私は、江戸の皆様への奉仕として、先生のお手伝いをさせていただくことといたしました。先生が失われたお声、残された1割の伝達のお声を私が聞き、そして皆様に伝えることにいたします」

 儲け話が飛び出せば誰もが興味を抱くもの。それが実現したと聞かされては、抵抗感まで払拭されてしまうではないか。

 これですべてのお膳立てが整った。後は、先生のご到着を待つのみ。男の話によると、先生は明日の朝にやって来るとのこと。大家がお祝いの花を準備し、長屋の女性達は、接待のための朝食の献立を相談していた。

 さて、当日、駕籠に乗って先生がやって来た。降り立った風貌は、数日前とは全く異なっていた。髭だらけの顔が整えられ、如何にも先生風。聖徳太子のような髭を蓄え、身に付けた装束によって、完全な神主という貫禄さえ伴っていた。

「ははぁ」
 長屋の衆が正座低頭で迎える。先生が一変した自分の家に入る。脱いだ履物の新しさが眩しい。
続いて、何回か姿を見せた丁稚が入るが、彼の手には一抱えの「榊」があった。
神前には何時の間にか三方が乗せられ、海山里の供物が神饌物として供えられている。

 先生が向かって右側に座る。大家の命で長屋の女性数人がお茶と食事を運んで来る。
 先生は、無言で一礼をすると、上品な仕種で食事を始めた。

 長屋の通路は人でいっぱい。噂と騒ぎで駆けつけた連中で溢れかえり、しばらくするととんでもない事態を迎えることになった。騒ぎを耳にした役人がやって来たのである。

        明日に続きます

2002/09/22   小説「幕末事件」  中編   NO 203

 やがて、左官が戻ったことを耳にした大家もやって来た。

長屋の衆が大掃除をした部屋、その上座に左官が座り、豪商らしき男が恐れ多い仕種で崇めているが、左官が座っている下には、誰も見たことのないような錦の立派な座布団があり、これは、豪商の連れてきた丁稚風の若者が携えてきたものだった。

 左官は、前に変わらず無口。自分の家に入ってから夕方までひとことも言葉を発していない。一人で喋っていたのは豪商らしき人物だけ。

「木戸口で番頭が見つけてくれましてな。早速拙宅にご案内申し上げ、私の持病を治療していただくことになり、これ、このように治癒したのでございます」

 長屋の衆は、完全に固まってしまっている。話をするのは男と大家だけ。固唾を呑んで
事の成り行きを見守っている。

「按摩の修行を積んできたのですか?」
 大家が素朴な疑問を言葉にした。男の目が一瞬にして厳しくなる。

「なんと失礼なことを。按摩や医師の修行ではございません。そんなことが5ヶ月で出来る筈もないこと」

「では、何の修行を?」
 大家の質問は、周りに座っている長屋の衆の気持ちを代弁するもの。左官は、じっと目を瞑ったままひとことも喋らない。

「皆の衆、よーくお聴きなさい。先生は、誰にも出来ない修行を終えられ、そのお陰で神が宿られることになられたのです。医師や按摩ではないのです。神のお告げを伝えることが出来るのです。しかし、そこで失ったものもあったのです。声の9割を失うことになったのです」

 長屋の衆がざわめく。互いが驚きの目で左官を見つめ、男の次の言葉を待っている。

「私が噂を耳にしたことは、本当のことでした。永い間苦しんできた腰痛が嘘のように治りました。私は、そのお礼といたしまして、このお部屋を改築して神殿とし、ひとりでも多くの方々を先生にお救いいただこうと考えたのです。如何なものですかな?」

 突然の帰宅、そして突飛もない予想外の事実を前に、誰もが唖然としてしまっているが、大家には確認したいことがあった。それは、この豪商風の男が何者であるかということで、場の雰囲気を崩さないような低姿勢で訊ねてみた。

「これは、これは、申し遅れたようですな。手前は、日本橋を少し離れたところで蓮根を卸す商いをやっております。生まれは水戸街道に近い土浦の郷。親が名主をやっており、手前は、土浦から運ばれる蓮根を一手に仕入れ、江戸の皆さんにという訳でして。お陰で大店を構えることも出来、感謝をいたしております」

 土浦といえば江戸から約15里。誰もが知る蓮根の産地で名高いところである。身に付けている装いからも大店の主という雰囲気があり、それらは、大家を筆頭に全員が納得するに充分な説得力があった。

      明日に続きます

2002/09/21   小説 「幕末事件」  前編   NO 202  

今日から、5日間シリーズで短編小説に挑んでみます。時代考証につきましては矛盾がありましょうが、なにとぞお許しくださいませ。


 江戸時代、幕末であった。庶民が暮らす長屋の片隅に、独身の左官が住んでいた。
 彼は、腕前が優れ、多くの大工仲間に重宝されていたが、仕事の会話以外を一切しないという人物。近所で偏屈者として名を馳せていたが、30才を過ぎた美男系で、長屋の女性達には人気があり、毎度の食事の差し入れを欠くことがないほどだった。

 そんな彼が、ある日、突然に姿を消してしまった。家財道具はそのまま。数日後には、今で言うところの捜索願も出されたが、人の噂も何とやら、やがて、みんなの記憶から除序に薄らいでいくことになった。

 忽然と姿を消してから5ヵ月後、一人の人物が彼を訪ねて長屋にやって来た。見るからに豪商という雰囲気を漂わせる男は、近所の人達に大家に会わせて欲しいと頼んだ。

 女性軍が蜘蛛の巣だらけの部屋を取り急ぎ片付け、やがて、大家と男の対話が始まったが、両隣には大勢の長屋の衆が入り込み、壁を通して聞こえる話に聞き耳を立てる。

 男の話しっぷりは中々のもの。店子達が一目も二目も置く大家さえ、信じられないほどの低姿勢。まるで勝負にならないほどの貫禄違い。男が只者ではないことが言葉だけでも充分に伝わってくる。

 さて、男がやって来た目的、左官に会わせて欲しいということだが、不思議なことに左官のことを「先生」と呼称しているではないか。思わず、大家が聞き直す。

「あの左官が先生ですと? 何かのお間違いでは?」

「恐れ多くも彼の御仁は、今やご高名な大先生となられ、山を下りられた麓の村で『神』とさえ崇められるお方。何よりご尊顔を拝し奉りたく参上仕り候なれど」

「なんと?『神』ですと? どういうことですか?」

 男の話によると、左官は山篭りをし、厳しい修行を経て神が降誕されることになり、麓に下りて、村人の病の治癒や天気のお告げなどを行い、それらの評判が高く、やがて風評が広がり、この男の耳に入ったということであった。

「私には腰痛の持病があり、その治癒を願い、使いの者を早駕籠で走らせたのですが、先生は、もうすでに江戸に向かって帰られたとのこと。その際、この長屋のことを聞き及びましたので」 

 男が腰に手をやりながら言っていることは、どうやら冗談ではないようだ。大家だけではなく、耳にした長屋の一同に衝撃が走る。

 やがて、男は、「また、参上いたします」と言って、帰って行った。

 男が帰ると、大家の命令で、長屋の衆が左官の家の掃除を始め、入り口に打ち水までやっている。

 それから3日後の昼、先日の男を伴って、左官が帰って来た。
顔中髭だらけ。如何にも山篭りをしてきたというような風貌であった。         

          ・・・明日に続きます

2002/09/20   彼岸の出逢い   NO 201

 昔、私が仕事で懇意にしていたおばさんがいた。彼女は結婚してから間もなく子供が産まれ、それからすぐにご主人が失踪してしまうという悲しい過去を引きずってきていた。

 幼子を育てるためにご苦労をされ、やがて、子供も成人されることになり、縁あって葬祭業の接待関係の仕事に従事したのである。

 ご主人が失踪された時、彼女が縫われたお気に入りの浴衣で「ちょっと出掛けてくるよ」と言って出掛けられたまま、それから全く音信普通であったそうで、数日後に捜索願いも出されたそうだ。

 葬儀の現場での仕事振りは中々のもので、人への接し方が重宝され、多くのスタッフ達にも一目置かれる存在になっていた。

 そんな彼女が、お彼岸に、大阪の四天王寺にお参りに行かれた時の事だ。四天王寺には多くの参詣者が来られることから、大阪府警が仮設テントを設け、身元不明人に関する相談所を開設していた、

 いつもそこに入ることはなかったが、その日は虫の知らせのような気がして、何か不思議な思いを抱きながらテント内に入ったそうだ。

 セッティングされた机の上には何十冊もの資料が置かれ、数万人という身元不明者として扱われた方々の写真資料が閲覧出来るようになっていた。

 自分のご主人が失踪された年度の1冊を手に、やがてページを捲っていくことになったが、その大半が死亡されている現場の写真であり、想像以上にリアルな物である。

 数ページを開いていった時、目に飛び込んできた着物の柄に見覚えがあった。それは、まさしく自分が縫い上げた浴衣であり、失踪の日に身に付けていたものである。

「これは?」 そんな彼女の問いに、警察官が関係資料を元に説明を始めた。死亡されていた日は出掛けた日の夜。死亡場所は家から数キロ離れたところ。警察が聞き込みをしても、浴衣しか身に付けておられず、やがて検視のうえ、行路病者として火葬をされてしまったそうだ。 

 検死の書類によると心筋梗塞。持病の急変と推測されることになった。もしも運転免許を取得されておられ、違反で検挙されていたことがあれば指紋照合でつながったかも知れないが、残念にもそれがなかった。街を出歩く時、自身が誰であるかを照明する何かを身に付けておくことも重要なこと。

 失踪から20年の月日が流れていた。成人された息子さんが喪主となり、葬儀が行われることになった。

 ご遺影はお若い頃のもの。近所の方々も誰が亡くなられたのか分からず、事情を伺って「気の毒だ」というお言葉を掛けていた。

 彼女は、妻として立派な葬儀をつとめられたが、以外にさばさばとされているような雰囲気が感じられた。「私の人生の区切りがついたの。母と子で葬儀が出せたもの。四天王寺さんの巡り合わせに感謝をしているの」と、挨拶をされたが、その彼女が数年前に亡くなられたとことを風の便りで知った。

 お浄土で再会を果たされ、懐かしく昔話に花を咲かせているような気がしている。

   ※・・明日から5日間シリーズで、短編小説を書き込んでみます。

2002/09/19   怒りモードでごめんなさい   NO 200

 今日は、記念すべき200号。毎日、支離滅裂で勝手なことを書いてきたものだが、書くということは、本当に恥を「掻く」ことでもある。葬儀屋風情が「偉そうなことを」とお怒りの方もおられようが、なにとぞご海容をくださいますよう伏して願い上げ、これからも是非、お暇な時にご訪問いただけますようお願い申し上げます。

 それにしても悲惨な現実に衝撃を受けた。拉致問題のご家族のこと慮ると胸が張り裂けるような思いでいっぱいだ。今も、ただ、生存されておられることを祈るばかりである。 

 戦争、独裁者、宗教は、人を変えてしまう。「人でなし」行動に扇動すること、それがどんな悲惨な結果を生んできたか世界の歴史が物語っているが、何十年、数百年経っても人間の愚かさは治らないようだ。

 人は生かされているもの。いつかは人生の終焉を迎えるもの。死の床にあって来世に夢を託して静かに命終を迎えることこそが人間でないのだろうか。

 人に危害を加えてしまった。「来世で待ち構えていないだろうか?」。低次元と言われるだろうが、そんな素朴な恐怖感こそが、社会の形成に不可欠で重要だと信じている、 

 宗教やイデオロギーをバックにしての争い、それほど愚かなことはなく、動物の世界には絶対に存在しない現実で、言葉というものを与えられた人間が陥って行った、最悪の方向であるように思えてならないところである。

 テレビや新聞を見て悲しい現実を知る。しかし、「気の毒に」と思う人が多く存在しても、そのすべてが何れは「他人事」として忘れられてしまう口惜しさ。葬儀や宗教に関する仕事に携わる私にとって、最も憤りを感じることでもある。

 日本トータライフ協会のコラム「有為転変」の明日編に記載されているが、人災で行われる合同葬ほど馬鹿げたものはない。天災なら意味もあるが、悲しみの遺族達を単なる出演者としてしまうような合同葬は、何より故人に対する礼節が欠けていると思う。

 個々の葬送にこそ重要な意義があり、そこで故人の存在と尊厳を讃え、ご遺族を癒す行動がなければ、形式ばかりの葬送では余りにも失礼で、主催者側の驕りでしかないと確信している。

 宗教者の皆様には失礼ではあるが、人災に於ける葬送では「お経」だけではご遺族が救われないと思われ、ご本人の生きた証し、余命を断たれた無念さ、ご遺族や友人達の切ない思いをぶつける環境にある儀式空間にこそ、葬送の意義があるように思えるのです。

 宗教は、人を幸せにするもの。不幸を少しでも不幸でないようにすること。人間の生き方、ありかたを説いている筈だし、世界中で毎日伝えられる殺戮の現実を真摯に鑑み、宗教者の一員として「申し訳ない」との思いを抱いていただきたとい願っている。

 檀家の家族の自殺、また、詐欺の被害者となった檀家さんもある筈。そんな方々をどうして救うことが出来なかったと、後悔されることがなければ宗教者という名誉あるご存在から逸脱されてしまうように思える。

 今日は、ちょっと怒りモードで打ち込んでしまいました。弱者が被害に遭遇されないこと。悪の強者が正義への懺悔に目覚めること。宗教者が真の宗教者になられることを願っています。

2002/09/18   逆 鱗 に ?   NO 199

 一般的な葬儀は、1時間でご出棺となる。独特の慣習によって早朝にご出棺し、お骨が還られてから葬儀を行うところもあるが、これらは遠洋漁業が盛んな港町であることが多く、なぜなら、喪主となる人物が漁に出掛け、半年間も帰ることがないこともあり、喪主が帰ってから葬儀ということで、先に火葬をすることが慣習として土着したものである。

 大切な家族を失った人にとって、悲しみの中で火葬という儀式は残酷でもあり、やはり正式な葬儀を終えてからがと考えるが、時代が変化しても慣習が変わることなく、未だに続いていることが残念であるし、それに甘んじている宗教者は情けないと思わざるを得ないが、土着した慣習は、宗教よりも強いという顕著なしきたりでもあるだろう。

 さて、1時間の葬儀で、宗教者が儀式を担当されているのは凡そで45分。残された15分で祭壇の一部の片付けやお別れが進められる。

 お棺の蓋が開けられ、故人との最期のご対面。花や共に入れたいと願う物が悲しみの中で柩に納められる。この光景は、何千回立ち会ってもいつも映画やドラマのシーンのように感じてしまう。

 このお別れの時間、導師をつとめられた宗教者は控え室で着替えを済まされ、やがて火葬場へ向かう車に案内され、ご乗車ということになっている。

 あるお婆ちゃんの葬儀で、ご家族や近所の方々がお別れをされている時、ご導師が「私もお別れをさせてください」と入って来られ、スタッフから受け取られた花を納められ、そして、「さあ、皆さん、一緒にお念仏を唱えましょう」と言われ、お念仏の唱和の中で柩の蓋が閉じられることになった。

 これは、本当に美しい光景であると思うし、すべての葬儀がこのようにありたいと願ってしまうのだが、実は、この時、この後にちょっとした事件があった。

 柩の蓋が閉じられた。周りを囲む方々が合掌をされている。私は、ここで、いつも行っている「命の伝達式」をやってしまったのである。

これは、私が発案したものであり、企業秘密としてここで内容に触れることは出来ないが、体感された誰もが「感動した」と言われる結果につながり、弊社のオリジナル「奉儀」のひとつとして継続されている。

 そのひとときの中に、導師がおられた。ふとお顔を見ると表情に変化が感じられ、何かまずい雰囲気があり、内心「しまった」と思った。

 やがて火葬場へと向かう車の中。委員長と喪主の会話が交わされるが、ご導師が一向に会話の中に入って来られない。私は、時折にバックミラーに目をやり、ご表情を垣間見る行為をしていた。

 火葬場では普通の状況ですべてが済み。帰路の車中も同じ状態で式場に戻ってきた。

 先に降りて車のドアを開ける。委員長と喪主さんがマイクロバスで帰られた方々にご挨拶に行かれる。ご導師が私に言葉を掛けられたのは、そんな時だった。

 「あれは、正直に言って、ショックを感じました」

 やはり、逆鱗に触れていたようで、すぐに「申し訳ございませんでした」と応える。

「いや、勉強させていただいのです。あれは、私達、宗教者が行なわなければならないことだったのです。私は、今日、貴方との出会いに感謝をし、今後の葬儀からは必ず行います。有り難う」

 初めてお会いしたそのお寺様。年齢は、60歳を過ぎておられるように見えたが、すがすがしい思いというよりも、正直言って、逆鱗に触れなくてホッとした出来事であったが、あのお寺様が「命の伝達式」をされたら、きっと素晴らしいご出棺となるだろうと思っている。

2002/09/17   プロの哲学   NO 198

 葬儀の司会者は全国に多く存在するが、その大半は与えられたシナリオを進行する司会であり、葬儀や社葬、偲ぶ会、お別れ会の総合プロデュースを担当するのは極めて稀である。

 私がプロデュース担当の基本にしていることは、終焉の「儀式」であり、単なる「会」や「集い」の考えで進められるなら、それが3000人も出席されるような大規模な場合でもお断りをしている。

 プロである以上、主催者やご遺族が嘲笑されるような仕事は請けたくないし、そんな司会やプロデュースは、「仕事」でなく「作業」で済ませればよいと思っている。

 司会の要請から、打ち合わせ時に内容が大きく変更することも少なくない。それは、私のプロとしての信念を伝えることで始まり、説得が納得の方向へ転じた場合である。

 ある著名なホテルのオーナーの偲ぶ会が行なわれることになり、会議に参上した。その時点ではすでにシナリオが完成しており、この通りの進行でお願いしますということになった。

 私は、本番までの日数に余裕もあり、会議での即答を避け、3日以内に私なりの考えを書類で提出しますと応え、司会を受けたという発言もしなかった。

 さて、3日後、私の創作した書類を担当社員が届けに行った。書いた内容は、ホテル側で構築されたシナリオでは私が司会を担当するレベルではなく、ブライダル司会者に依頼されても対応可能なレベルですと書いた。

 但し、そのシナリオに対する細かな分析と、参列者に生まれるであろう心情を箇条書きにしたため、すべてが終わった時に確実視される嘲笑の声には耐えられません。プロは、笑われると分かっている仕事は請けられませんと、はっきりと断言までしてしまい、相手側の怒りに触れキャンセルという結果を予測していた。

 それから2日後であった。再度の電話を頂戴し、改めて気まずい思いで参上すると、意外な結論が伝えられてきた。「君にすべてを任せる。思うようにやって欲しい」。

 強気で行動してしまった以上、この意識変化に対応することは大変である。しかし私が問題提起した葬送の本義をご理解されたことは確実で、厳粛な式と和やかな偲ぶひとときとの2部構成を組み上げてシナリオ化し、設営以外の進行スタッフは、全員を女性でキャスティング。私の描いたドラマ調の偲ぶ会が行われることになった。

 さて、当日の本番が終わった。参列者の評価がすこぶる高かったようで、主催者側のご機嫌が麗しく、プロとしての達成感を味わうことになった。

 「断られた時はショックでした。突き放すこともプロとしてのシナリオテクニックだったのですか?」という質問には、正直言って答えられなかったことを白状するところである。

2002/09/16   申し訳ございません    NO 197

 丁寧な物腰のお電話を頂戴した。ご用件は「慈曲葬をお願いしたいのですが」という事前相談であったが、相手さんのご住所を伺って<どうしよう>ということになってしまった。なんと、信越地方なのである。 

 ご入院中のご主人がご不幸を迎えられた時に「慈曲葬」形式の葬儀を行いたいとおっしゃるのだが、その時、インターネットで弊社を調べられたものと勝手な推察をしていた。

 事情を伺ってみると、その方の知人が大阪のホテルで行なわれた「慈曲葬」に参列されたことがあり、その際に体験された感想に共鳴されたということが分かった。

 これまでにも九州から北海道まで、様々な葬儀のプロデュースや司会を担当してきたが、その8割は、日を改めて行われる社葬、偲ぶ会、お別れ会などであり、残りの2割は地元業者さんからの依頼による司会の担当であった。

 今回のお話は、ご不幸を迎えられた時点からすべてを任せるという要望で、上記の事情をお話しながら、地元の業者さんに密葬か家族葬で依頼され、日を改めてされる場合には担当が可能と申し上げることにした。

 話が進んで行くと、どうしても日を改める形式が不可能で、1回限りの形式で通夜と葬儀を行いたいとご希望される。

 慈曲葬の対応は、日本トータライフ協会加盟業者であれば可能だが、残念ながら信越地方にはメンバーが存在していないのが現状。近いところからと考えても群馬、東京からの派遣ということになるが、通夜と葬儀となれば、時間という物理的事情で対応が不可能となってしまう。

 地元の業者さんに依頼をとの考えもあるが、慈曲葬となればそうはいかない。徹底した取材による人生表現、献奏曲の編曲、司会から司式への意識改革など、長時間のカリキュラム研修を終え、初めてそのサービス提供が出来るという高レベルな葬儀形式であり、3ヶ月や半年でマスター出来るものではないのである。

 残念な結論であるが、日を改めて行われる場合は担当可能ということで結んでしまうことになってしまった。

 「一生に一回だけだから」とおっしゃった相手様のお言葉が私の心に突き刺さり、今後の責務の重さと対応策に進まねばと、宿題を与えられたように思っている。

 電話は、30分に及ぶことになったが、参列体験をされた方が持ち帰られた式次第の話題もあり、私達が構築したオリジナル「奉儀」や「星名国際登録奉呈式」のことまで登場し、物理的事情で対応が出来ない不甲斐無さに、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、電話を終えた時点からの後味の悪さは言葉で表現出来ない辛さがある。

 過去ログにもあるが、「体感に勝るものなし」という言葉は、今回にも正しかったということを再認識したやりとりであった。

 誠に申し訳ございません。余命を与えられた残された日々、大切な人との時間の共有と過ごし方に、後悔がないようにとの思いを抱きながら、心からお詫び申し上げるところでございます。

2002/09/15   挽  歌    NO 196

 高齢を向かえ、人生の黄昏を感じる頃、夫婦互いに「伴侶を失ったら」との、どうしようもない心境に陥る時があるもの。これらは子供が存在していても、核家族が当たり前の時代の背景に生まれた悲劇でもある。

 夫婦だけが暮らす家。そこで伴侶を失ったらどうなるのだろう。非日常的な悲嘆の心理から立ち直り、普通の生活を送ることになるまでは簡単なことではなく、精神に異常を来たして「鬱状態」になったり、自殺をされてしまう不幸も起きている。

 考えていただきたい。家の中を見つめる。家財道具に触れていた伴侶の姿が見えてくる。自室にいなかったとしても何処かにいる。今日は旅行やお出掛けということもあっただろうが、その相手が地球上に存在しなくなり、この家に絶対に帰ってくることのない寂しさは想像を絶するものであろう。

 昨日に送らせていただいた方も、きっと、そんなご心情に襲われておられたものと拝察しながら、お子様の存在のない人生の黄昏は、想像を絶する孤独感もあったことだろう。

 今年の桃の節句の日に、奥様のお別れ会がホテルで行われ、私が司会を担当したが、式次第の中でご主人が綴られた「奥様への思い」は、愛にあふれた感動の文章で、素晴らしい「男の挽歌」として、朗読した私の脳裡に今も焼きついている。

 それだけに、ご主人が過ごされた7ヶ月間の壮絶な悲嘆のご心情が理解出来、今回は、何とも表現出来ないような思いで進行を担当してきた。

 そんな中、日本トータライフ協会の掲示板に、「一人暮らしの侘しさよ」と題する片山
雄峰先生が81歳の誕生日に綴られた「詩」が記載されてあり、故人を偲び、捧げる詩とさせていただく。


妻を憶ひて独り言

愛怨無限人知れず  別離乃涕に頬ぬらす  前世の因果は知らねども

 不運の星に生まれしか  難病の苦難に耐えて十六年  喜寿を迎えて一人逝く

夫婦は二世の契りとぞ  俺を残して一人逝く

 行方星なき大空乃  何処の星に居るのやら  俺は此の世に暫くは

   残せし仕事まだあるぞ  あの激烈の大戦に  南溟駆けし幾千里

    砲煙弾雨かいくぐり  神仏加護のお陰にて  武運に恵まれ帰り来て

     まだまだ生きて頑張れと  夢にお告げの神仏に  吾れ百歳までに長生きし

        子や孫達の生きざまを  見届けのちにあと追わん

  たまに夜空を仰ぎ見て  お前の星を探せども  判らぬままに酒を呑み

   うたたねしつつ夢枕  今宵はどんな夢で逢ふ  一人暮らしの侘しさよ

2002/09/14   ノスタルジー    NO 195

 一昨日、奈良県橿原市での葬儀を担当した。広い庭には、故人がお好きだったゴルフのグリーンもあり、アプローチ練習が充分に可能なスペースもあったが、もう、それをお使いになることもなく淋しい思いがあふれてきた。

 ご出棺をして火葬場に向かう。何度か行ったことのある橿原市立斎場。途中の道路に掲げられている地名看板には、石舞台、高松塚など、日本の故郷という明日香村らしい案内がされており、小学校時代の遠足で来た当時の光景が懐かしく思い出されてきた。

 今回のご葬儀は喪主様の存在がなく、施主という立場の有志の方々で進められていた。今年の冬に奥様に先立たれた故人には子供さんがなく、えにしに結ばれた方々がご位牌やご遺影をお持ちになりご出棺となったが、私には、ひとつの懸念を抱くことがあった。

 それは火葬場で行われる点火ボタンのプッシュで、血縁のない方が担当されることに、どんなご心情が生まれるかということで、車を運転しながら霊柩車の後に続いて火葬場へ向かっていた。

 大阪市内の火葬場では、お柩が炉の中に納められた時点で自動点火というシステムであり、ご遺族が点火ボタンを押す必要はないが、地方に行くと、「点火ボタンをお願いします」と、火葬場の係員が要請されるところも多く、中には、裏側に回って点火された事実の確認をしなければならない所もある。

 如何に葬儀という終焉の儀式を終えた後と言っても、点火の担当を悲しみのご遺族に託することは残酷極まりないように思うし、いくら決別の情を断つ意味があるとしても避けてあげるべき配慮が必要であると考えている。

 ご出棺に際しお柩の蓋に釘を打つ。ご出棺の時に茶碗を割る。玄関以外の所から出棺をするなど、地域的な慣習や習俗が未だに残っているが、すべては「人が作ったもの」「人が決めたもの」である以上、馬鹿げたことは人によって変えるべきだと思う。

 今回のご葬儀の日程を決められる時、ご自宅で仮通夜をされ、13日の葬儀という考え方もあったが、皆さんの合議の上に12日の葬儀となった。

 13日は「友引」の上に「13日の金曜日」。そんなところから「とんでもない」とのご意見もあったようだが、そんな誰が決めたか分からない謂れに影響されて葬儀の日程を早めたり遅らせたりすることは、故人にとっては迷惑な話であるように思えてならないところである。

 故人の歴史を伺った時、大連中学、旅順会という激動昭和の時代によく登場してくる名称を耳にした。人生それぞれに幼年期、青春時代があった筈。戦後生まれの私には計り知れない苦難もあられたものと推察申し上げる。

 久し振りに大和三山を眺めながら、不謹慎なことで申し訳ないが、小学校時代の遠足に初恋の相手を思い出し、明日香の道を懐かしく走行。山々の緑や空の雲には秋の訪れを物語る「もの悲しい」風情を感じるひとときとなった。

 先立たれた妻を送り、それから約7ヶ月間過ごされた孤独の日々、広い敷地のすべての場にご夫婦の思い出がある筈。どんな去就に耽られたのだろうか。

そんな思いを託しながら、明日は、日本トータライフ協会のメンバー掲示板から、伴侶を亡くしてからの男の淋しい思いを綴られた著名な方の「詩」をしたため、今回に送らせていただいた方の人生の黄昏を偲ばせていただきます。

2002/09/13   生意気ですが、ご海容ください。  NO 194

 若いご住職が「相談がある」とやって来られた。
お話を伺うと、通夜の説教で「聴いてくれるムードや姿勢が生まれないのです」というお悩みであった。
 
通夜や法要でのお説教、法話は、大都市圏では少なくなったが、「説教があるのか」と抵抗感を抱かれることも多く見られ、若い住職達の悩みの種になっているようだ。

「あなたは宗教者ですよ。通夜での主演となる立場にあります。堂々とお話をされるべきですが、聴かせるための勉強と努力も必要です」
 
そんな失礼な言葉を返してしまったが、多数の方々に話を聴かせるには話術も重要であることを知り、基本的な「話し方」ぐらいは学ぶべきだろうとアドバイスをした。

説教の内容の大半は、ご自身の宗教に基くことや「作法」の枠にとらわれてしまいがちだが、これでは参列者の心の扉を開けさせることが難しく、グローバルな観点での「なるほど」という心情を抱かせるテーマも考慮するべきである。
 
読経が終わった。一礼の後、参列者の方に向かう。「今日は、**さんのお通夜。皆さんがご弔問くださったことを、故人はきっと感謝をされておられると思います。今から、10分間、お話をいたします。私は、生前、故人とは何度もお話をしたことがあります。そんな中、印象に残っていることがありました・・・」

「**分間」という冒頭の言葉も重要で、それが20分、30分でもよいのである。一般の方々には「説教とは長いもの。いつ終わるか分からない」との先入観があり、これを払拭することからスタートするのもテクニックのひとつである。

 「あなただったら、どんな説教をされますか? 例えばというヒントを教えてください」  
 そんなご要望から、私が無宗教形式で行なう「司式バージョン」のさわりをやってみることになってしまった。

「ここにご家族が悲しんでおられます。大切な方を失うということは体験した人にしか理解出来ない悲嘆に陥ります。皆さんの中にも涙を流しておられる人がおります。涙は悲しいから流れるのでしょうか? そうではありません。涙は感情が極まった時に生まれるもの。生きている、生かされているという証しでもあるのです。皆さんが流す涙は、故人の死に対するものなのでしょうか? それとも、この日がやがてやって来るというご自身への哀れみからなのでしょうか? この涙の色は異なる筈です。両方の涙が混じらないように願いながら、明日の導師をつとめます。故人は、皆さんと知り合って過ごされた人生に、きっと感謝をされておられる筈です。出会いそのものが故人へのプレゼントと言えるかも知れません。皆さんは、**さんの死に接しられて命の尊さを学ばれました。別れというものは悲しいものです。今は、本当につらい試練の時を迎えています。夜から朝に、冬から春へと、巡り来る時の流れには過去、現在、未来という言葉が存在します。いつか、きっと朝や春を迎えることを願うばかりです。**さんの死が、皆さんの生を知られる機会となり、明日からの人生の糧のひとつになれば、**さんも、きっと喜ばれるものと拝察いたします。今日は、ご弔問くださいまして誠に有り難うございました。故人に成り代わってお礼を申し上げます。南無阿弥陀仏・・・」

 通夜の説教で「焼香の作法」を教えておられるケースが多い。また、ご自身の宗教の意義を専門的に説かれる方もおられる。遺族の存在、参列者の存在を考える時、失礼な表記で恐縮だが、おのずとして説教のシナリオを熟慮されるべきであろう。

 一方通行でのお話、それは、聴く側に伝達出来たという結果がすべてであり、説教者が宗教者として認識される重要な機会となり、講釈師型や落語調が受けていると勘違いをされておられる住職も少なくないようだ。

2002/09/12   ごまめの歯軋りですが     NO 193

 NHK教育テレビの「にんげん ゆうゆう」、日野原先生のシリーズ3日目を収録ビデオで見た。奇しくも今日は世界的な衝撃の日、夜のニュース番組の中心はニューヨーク・テロから1年であった。

 日野原先生のお言葉を拝聴していると、このニューヨーク・テロののような事件が空しくなってきてしまう。先生の説かれるお心の原点には「にんげん」があり、世界中の人々にこんな考え方が伝われば、きっと争いというものが消滅するように思える。

 コンピューターと対話しながら診断をする医師。医学に於ける科学やITの進展は、確かに新しい発見や情報を与えてはくれるが、患者の目線に合わせて手を握って対話をする。それが「医師の手当て」だとおっしゃられたことが印象的で、週に一回の回診の際、若い医師達にその光景を学ばせる姿は、まるで偉大な宗教者のようにも感じた。

 今日は、シリーズの4日目。「死と生」に関するお話で、どんなことがあっても収録をしなければと考えている。

 さて、僭越だが、今日は、少し生意気なことを書かせていただく。ごまめの歯軋り、石亀の地団駄とご一笑いただければ幸いです。

 私は、これまでに多くの葬儀を担当し、様々な悲しみの光景を体験してきた。大切な人を失う衝撃、それは体験した人にしか理解出来ないものであるが、私達の仕事は、それを少しでも理解するための努力もしている。

 日野原先生が十数年前からおっしゃっておられた「音楽を活用する医学療法」。それが近い将来にわが国でも法制化されようとしており、その先人としてご活躍の日々だが、葬儀という悲しみの場にも「癒しの過程」という部分で、音楽のパワーは素晴らしく、私達が活動する「日本トータライフ協会」では、これらのことの研鑽を随分前から始めており、それらの初歩的な具現化が「CD 慈曲」の誕生につながったのである。

 一方で、葬儀では様々な宗教に接することになるが、宗教によって救われた人、宗教によって死んでしまった人など、両極端の事実も垣間見てきた。

 戦争は人を完全に変えるが、宗教も然りで、自爆テロの行動心理は、戦争思想の上に宗教が加味しなければ絶対に不可能なことと断言する。

 もちろん、英雄的行為という誤解されるケースもあるだろうが、殺戮は誤まった「美」の世界であり、人間の最も愚かな行為である。

 21世紀を向かえたIT社会。インターネットの世界にも宗教に関するHPが驚くほど発信され、他宗の攻撃をされる宗教団体も少なくないが、こんな実態を知ってしまうと、テロ思想に進展する危険性が山ほどあることに気付くことになる。

 弱者が神仏のご加護を求めて縋ること、それは許されるし美しいことだが、他の否定に走る宗教は、何より地球上の脅威となると断言するし、これらを世界の歴史が物語っていることを学ぶべきだと思っている。

 最近、一般の方々の葬儀に対する疑問が高まり、様々なかたちで表面化しつつある。宗教によって形骸化されてしまっている葬儀に対する素朴な疑問と抵抗感が次第に高まっており、そんなことを背景に、全国で無宗教形式が流行してきている。

 歴史と伝統に守り築かれてきた宗教に基く形式の葬儀。仏教用語である「有為転変」が、宗教界に波及してきていることを認識いただきたいと切望している。

2002/09/11   ご 仏 縁    NO 192

 この「独り言」を毎日パソコンのワードに打ち込んでいるが、ふと、総ページ数を見たらA4で345ページ。考えてみれば3月1日からの発信であり、こんな数字になっているのも頷けるが、目が疲れることには弱っている。

 久し振りに一昨日から昨日とテレビを観た。どうしても観たい番組があったからで、午後7時半からNHK教育テレビ「にんげん ゆうゆう」にチャンネルを合わせた。

 登場された方は、聖路加病院の日野原先生。ご自身の90年の人生哲学を感服しながら拝聴した。

 先生のおっしゃられた75歳からの「新老人」、85歳からの「眞老人」。また、生活習慣の改善などのお話しに、55歳の私は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。

 先生が持っておられる手帳は、3年対応。学会の講義、講演の依頼などが欄外を含め、4年先までのスケジュールが記され、そのご対応を背に「肉体の活性は心の健康から」というお言葉が重く響いてきた。

 弊社が属する日本トータライフ協会でも、掲示板や研修会では必ず日野原先生のことが話題になり、最近では医療現場での臨終の看取り方として、息を引き取る人と家族の「あり方」に付いてのお考えに全員が感銘したことがある。

 私は、職業病と呼ぶべき様々な疾患を持っているが、その多くが成人病と呼ばれているにも関わらず、先生は、そのすべてを生活習慣病とご判断。自身で治すことが可能であることを強調され、大いに反省しているところであり、今日から心身の健康を目指す意識転換をすることにした。

 そんなことを考えていた時、友人から田舎の親父さんが亡くなって、田舎に帰って来ていると電話があったが、空港から乗ったタクシーで奇遇なことがあったと話してくれた。

 **町へと行き先を告げタクシーが走り出したが、実家まで約40分間の車内での夫婦の会話に、「ご不幸でしたか」ということから、運転手さんも話しに加わることになったそうだが、もうすぐ実家に到着するという少し手前のタバコ屋さんで車を止め、「ちょっとだけ時間をください」と言って降りられた。

 運転手さんは、すぐに戻って来られ、何事もなかったように車を走らせたが、やがて実家に着いた時、メーター料金8000円を支払うと同時に、「これ、お供えしてください」と香典を差し出されたのである。タバコ屋での寄り道、それは香典袋の購入。中には3000円が入っていた。

「実は、私、あなたのお父様にお世話になったことがあるのです。空港で何十台も順番待ちをしていた私の車に、息子さんご夫婦が乗られた。これは、きっとご仏縁です」

 友人は鄭重にお礼を述べ、預かった香典を祭壇前に供え、実家の方々に経緯を話したそだが、叔父さんの一人がその人物のことを覚えておられ、懐かしそうに涙を流されたそうだ。

 偶然と言えばそれまでだが、世の中には「仏縁」というべき不思議な出会いが少なくないものであるが、私は、日野原先生の著者やお言葉に触れる事が出来、この「えにし」が私のこれからの人生を大きく変えてくれることになり、心から感謝している。

 確か、今日の午後7時半からも放送がある筈だが、仕事で今日はビデオ収録しなければならない。

2002/09/10   宝塚のえにし    NO 191

 学生時代の同期であった人物から電話があった。サラリーマンであった彼が、地方に転勤ということで、その記念にとゴルフに行ってから10年は経っており、懐かしい思いでいっぱいだった。

 なんで急に電話を?と訊ねてみると、面白い遭遇について教えてくれた。

 彼は、夫婦で宝塚歌劇が好きで、中でも往年の「久世星佳さん」の熱烈なファンで、彼女の公演などの情報をいつも調べていたそうだ。

 そんな中、インターネットで「音楽 久世」と検索してみたら、トップページの1番目に<葬儀演出音楽「慈曲」CDの監修>が存在し、その下に久世栄三郎の名前があって驚いたそうだ。

 そのページを開き、やがて私の写真も目にしたそうだが、「老けたなあ。ふさふさしていた髪はどこへ行ったのだ」という、強烈な言葉も浴びせてきた。

 久世という稀な姓が結びつけてくれた「えにし」だが、残念なことに失礼で申し訳ないが、久世星佳さんの顔を全く知らない私なのである。ごめんなさい。

 宝塚劇場で信じられないような話題があるので披露させていただく、私の懇意にしている人物の家が、宝塚劇場に隣接しており、壁の色や創りまでが劇場のイメージになっているのだ。

 その方のお父様がご逝去され葬儀を担当させていただいたが、その際にご自宅に伺った時が大変だった。車で劇場の正面まで入って行くと警備の方に止められ、「どちらへ」と訊ねられ、**さんのお家にと伝えると、「どうぞ」とわざわざ誘導してくれたのである。

 ご葬儀は宝塚のお寺で行われたが、宝塚の俳優さん達から驚くほどの弔電が到着しており、代読にあたってお名前の読み方が分からず大変な苦労をした。

 私のサブの女性司会者が詳しくて助かったが、「宝塚オンチ」と言われたのはショックだった。

 葬儀の当日は、多くの宝塚ジェンヌの会葬があったが、誰を見ても「これは宝塚だ」という独特のイメージがあり、これだけは私のような者にもはっきりと分かった。

 その彼と何度かゴルフに行ったが、いつもご一緒するのはある一流ホテルの総支配人さん。ある時、彼が急用で来られなくなり、急遽ゴルフ場のレッスンプロをお願いし、総支配人さんのコーチをお願いしてラウンドしたが、その支配人さんが、ワールドカップのテレビニュースに何度か登場され、ベッカム選手と握手をされていた光景に驚いた。

 その総支配人さんの息子さんがK1の選手で、励ます会で握手した時、その大きな手と迫力には圧倒されることになった。 

2002/09/09   秘められた大事件  後 編   NO 190

 この委員長さんがおっしゃられたことは、今、全国のホテルで発生しつつある重要な問題である。参列体験に生まれた疑問の爆発というところだが、その背景には事情があった。

 それは、この方が委員長をされた、ある「お別れ会」を私が担当したことがあったのだ。
その打ち合わせ時、今回ホテル側が提案された形式をご本人が進められており、社葬会議の時に、プロデュースと司会を担当する私と戦いを交わし、全面的に私の意見に賛同いただき、その結果「素晴らしい社葬だった」という皆様からのお言葉を頂戴された経験があられたのである。

 その時に私が提案した社葬の意義。それらはホテル側が独自で考えられたものとは全く異なる世界で、「ご遺影をお飾りする以上、故人に失礼なことだけは止めましょう」という言葉に衝撃を受けておられた。

 社員が社葬の式次第に参加し、会社を挙げて社葬を行っている。また、悲しみの遺族が癒されるひとときが構成されている。そして、もっとも重要なことである故人の人生表現のひととき。参列者が故人の死に接することによって知ることになる命の尊さなど、様々な創作シナリオで語り掛けた私のプロデュース。それは、信じられないような感動を頂戴することになったが、メインのナレーションの中に挿入させた「私の死は無駄ではないだろう」という言葉の部分に、「社葬の意義を感じた」とおっしゃっていただいたことが本当に嬉しかった。

 さて、ホテルマンとのその後の成り行きだが、結果としてホテル側では対応不可能ということで、委員長さんの要請から私がプロデュースと司会を担当することになってしまった。

 式次第もすでに印刷され、開会の言葉の次は「お別れの言葉」となってしまっていたので、ホテル側に恥を掻かせることを避け、開会の言葉までに様々な演出を組み入れることにした。

「そんなことが出来るのか?」と、疑問を抱かれる方もおられる筈なので種明かしをするが、オープニングは「プログラムのページを開かせていただきます」で始めたのである。

 本番の日まで、ホテル側には、私に対する敵対心がありありと見えたが、終わった時、担当責任者が握手を求めてこられたのだから、彼だけは理解に至ったことは確かだ。

 この委員長さんは著名な方で、これからも全国で行われるホテル社葬やお別れ会、偲ぶ会の委員長をご担当されることがあるだろう。

偲ぶ会、お別れ会、社葬などがホテルを会場とする潮流だが、体験された方々によって世の中が変化して行くことを知らなければならないだろうし、本義を重視する「正道」だけが生き残ることは歴史が物語っている。

 この「独り言」を訪問される方々の中には、メールの分析からもホテルマンも多い。皆さんが今回のホテルマンのような被害者とならないように願っているが、終了後に委員長さんが担当ホテルマンにおっしゃられた次の言葉が印象に残っている。

「このホテルがこれまでに担当した偲ぶ会やお別れ会、その遺族や故人に対して失礼だった。申し訳ないことをしていたと思っているかね。取り返しのつかないことを仕出かしてきたということだ」

2002/09/08   秘められた大事件   中 編   NO 189

 このホテル担当者は、これまでに何十回もこのパターンでの経験があり、そこそこの自信も抱いていたが、委員長のおっしゃった「故人のことの把握」の言葉には、寒気が走ったそうだ。

「お言葉を返すようで恐縮ですが、何処のホテルでもこの形式で進められており、当ホテルでも、これまでクレームを伺ったことは一度もございませんが」

「君は一流ホテルのホテルマンだろう? これまでのクレームの有無に関係なく、この会が終わった後に確実に生まれるクレームが、今、ここで発生しているとは気付かないのですか? クレームが発生することが分かっていて、どうして対応をしないのか不思議でならないところだ」

「・・・・・」

「では、伺おう。**君のお別れ会を行う。入り口で受け取った花を供え、2人の言葉を拝受し、献杯で食事が始まる。これなら単なる食事会に**君の遺影を飾っただけではないか。これでは主客転倒であり、異常なスタイルだと思わないか? どの部分で故人を偲ぶことが出来るのですか? 食事中の思い出話しがそれにあたるのですか? それだったら話題になるような好物を一品ということも大切でしょうし、そのことをホテル側が皆様に伝える姿勢も重要じゃないですか?」

「その程度のことなら対応可能です。食材のよっては予算がアップすることもありますが」

「君は、何と失礼なホテルマンだ。誰が予算の話をしましたか? 私が言っていることは『心』のことでしょう。『思いやり』のことでしょう。必要な費用なら納得をして支払いますよ。私が忙しくて今日まで打ち合わせが出来なかったことは申し訳ないが、一流ホテルと称されるなら、こんなことぐらい瞬時に対応出来るレベルの話ですよ。君達が描いたラインに我々を乗せようとする姿勢が気に入らないところだ。ところで、献花の花は何を用意しているのかね?」

「菊ですが?」

「それはご家族が決定されたのかね?

「はい。菊とカーネーションを提案いたしまして、菊ということに」

「故人が好きだった花を知っているかね? 確認していない筈だ。**君には菊は似合わないと思う。もしも菊でいいとしてだ、ラッピングはどうなっているのかね」

「菊一輪を献花していただきますが、ラッピングは経費を要しますので提案いたしておりません」

「裸の花をお客様に手渡すことに抵抗はありませんか? それをお供えになる方の心情を考えたことがあるかね? また、委員長である私と施主だけには別の花を考えているということはないのかね?」

「はい、伺ったご人数分の菊を用意しているだけです」

「このホテルのお別れ会のサービスは劣悪だ。どこが一流ホテルだ。私が委員長の責任の立場から、すべてを見直すことにする。施主さんや家族の了解を得ている。故人の友人達も多くやって来るのに、こんなレベルでは羞恥の極みだ。何より故人に申し訳が立たない。いいね?」

「はぁ・・?」

「私や多くの友人達は、これがホテルのお別れ会だという感動の体験をしている。君には協力を願うが、一生に一回限りのことだということを忘れないように」

    明日に続きます

2002/09/07   秘められた大事件   NO 188

 当事者であるお客様には申し訳ないが、有名な一流ホテルで信じられない問題が発生した。

 ある日、お客様がホテルのバンケット担当者を呼ばれ、「お別れ会」を依頼されたが、このお客様は全面的にホテルを信頼され、手回し良く遺影の元になる写真のご用意までされて来ていた。

 出席人数の把握、料理の内容、祭壇の予算、簡単な式次第の提案が行われ、それから数日後には通知状の印刷が出来上がり、そのすべてが郵送されることになった。

 そんな頃、この会の実行委員長のスケジュール調整が可能となり、施主側代表者を伴われ、会場の確認を兼ねてお食事にホテルを訪れられた。

 担当責任者が会場を案内し、全体的な流について説明を始め、当日の料理内容の詳しい説明をされようとした時だった。

「もうよろしい。料理の内容を伺っても何の意味もない。ホテルは料金によって料理内容が変わるぐらいは誰でも知っている。そんな説明を受けにやって来たのではないのです。全体としてどんな『会』になるのか、それを知りたいのです」

「はい、『会』とおっしゃいますと式次第のことでしょうか?」
「式次第も『会』の一部でしょう。私が言うのは全体的なことなのです。ホテル側がどのようなことを考えてくれているのかを知りたいのです」

「・・・・・?」

「このホテルは、何度もお別れ会をやっているそうではないか。君達ホテルの担当者が、この遺族の方々に何を与えてくれるのかということ。故人に何をプレゼントしてくれるのかと訊いているのだよ」

「・・・・・?」

「君は料理の説明をしようとした。出席者は食べるだけ。故人の嫌いな物は省いて欲しいとは言わんが、好きだった物ぐらいを把握し、料理長がその一品をこのように表現しましたというのがホテルサービスではないか? 君は故人のことをどれだけ把握されているのかな?」

「・・・・・?」

「まあ、いい。では式次第に入ろう。司会者の開会の言葉で始まり、次に弔辞か? 皆さんの献花はどのようになっている?」

「ご入場の際に入り口でお渡しし、ご祭壇にお供えいただき、着席されて開会ということですが」

「このホテルは、未だにそんな失礼なことをやっているのか。お客様にも失礼だし故人に申し訳が立たないほど無礼な形式ではないか。食事を目的に開催されるように考えるホテルの姿勢が理解出来ない。私が委員長である以上、そんな失礼この上ないやりかたは許さん。恥を掻くの私だけで済むが、悲しみの家族をそれ以上に悲しませることだけは絶対に許さん。白紙に戻して一からやり直しなさい」

 さあ、大変な事件の発生である。本番まで1週間を切っている状況を迎えての大問題。この顛末は明日に続きます。

2002/09/06   協会の研修会に向けて   NO 187

 昨日の夕刻から2人の社員を伴い神戸に出掛け、ホテルで研修会の打ち合わせを行なってきた。

 JRの快速の車窓から見える山手側の住宅風景。神戸に近付くに連れ、山が迫り、高層マンションが立ち並ぶ。

 人々の暮らしを伺わせる窓の明かり。私は葬儀屋らしい観点で考えてしまい、ふと、昨日の「独り言」のテーマである「北枕」のことを思い浮かべていた。

 高齢社会を背景に、大切な家族の一員が不幸な?デーを迎えられた時、どんな形式で葬儀を進めて行かれるのだろうかとの思いも過ぎり、葬祭式場の流行、事前相談の増加、ホテル葬の潮流までの構想を描くひとときとなった。

 弊社が加盟する日本トータライフ協会は、今、葬祭業界、ホテル業界での注目を一心に集めている。なぜならホテル葬や無宗教の独自のノウハウ、ソフトを、知的財産に帰属するレベルで構築し、日本の最先端技術として認識されてきているからである。

 そんな協会が主催する秋の研修会。ホストとなる立場にある大阪と神戸のメンバーには重責が課せられることになり、全国から集まる「匠」達を納得させるだけの研修カリキュラムを組み上げなければならず、綿密な打ち合わせが必要で、昨日から始まった訳である。

 未曾有の阪神淡路大震災のことも重要なテーマで、その時の悲惨な体験報告は、悲しみに接する我々葬祭業にとって何より貴重な研鑽となり、これまで受講されたメンバー達が、異口同音に「学んだ次の日から、葬儀に対する考え方に変化が生まれ、自身の仕事の重責と新たな誇りが生まれた」と語っている。

 協会のHPで毎日更新している「必見 コラム 有為転変」。その9月5日付けNO227号で「悲しみの語り部」と題された内容でも触れたが、天災による瞬時の不幸。それはどんな悲しいドラマより悲惨な現実があり、語り部自身も涙なくしては語れないそうだ。

 人の死に接する。人の死に涙を流す。そんな時、人はこれまでよりやさしくなれるそうで、そんな体感につながる貴重な講義を拝聴出来る「えにし」に、深く感謝の意を抱いている。

 一方で、朝からイントラネッツを開くと20ページに亘る文章が記載されていた。これは、高知県のメンバー「おかざき葬儀社さん」が明日に担当される講演のレジュメで、受講されるのは大手病院の医療関係者。その内容は葬祭心理学、葬祭サービス学からグリーフワークにまで及び、受講者の皆さんがさぞかしカルチャーショックを受けられるものと推測している。

 業界情報雑誌の今月号に、当協会の杉田副理事長の特集記事が10ページ以上に亘り掲載され、小見出しの文字には「祭壇のない葬儀」というのがあった。

 我々メンバーは、これらについての研修も何度も受けており、その言葉の真意を理解しているが、協会に加盟していない業者さん達には絶対に理解出来ないだろうと確信している。それだけの深い信念と哲学に裏付けされた重みのある完成のテーマであるからだ。

 日本トータライフ協会の活動展開。個性あるプロ達がよくもこれだけ集まったものだと再認識しているが、正道を進むだけにその影響力は計り知れないパワーを秘めている。

2002/09/05   北 枕    NO 186

 ご不幸が発生し、葬儀の依頼からご自宅に伺うと、すべてと言っていいほど「北枕」という言葉を耳にする。

「こっちが北だから」、そんな誰かの発言から裏口に枕が向けられてしまうこともあった。 

 北枕、これは、誰もがご存じのように「お釈迦様」の涅槃に因んだものである。

 地球の地質学を専門とされるある学者が、「人間が睡眠する場合、北枕がベターだ」と書いていたが、これは、地球の磁場に関係するところからだそうで、医学的にも証明されているとのこと。しかし、生きている人が「縁起でもない」という心情から、北枕で寝ているパーセンテージは非常に少ないものと推測する。

 お釈迦様の研究をされている仏教学者から、涅槃の際の頭北面西は、お釈迦様の故郷が北の方向にあり、命終を悟られた時の故郷への思いが、そんな涅槃のお姿になったという説もあることを教えていただいた。

 限られた土地の有効利用をしなければならない我が国。不動産業者、建設業者が北枕のことまで考慮することはなく、6畳の間や8畳の間に、ご遺体を斜めに安置しなければ北枕にならないことも少なくない。

 ある葬儀で、上述に関する興味ある話題の進展があった。

その式場となった会館は、祭壇に向かって左側が北の方向にあたり、ご遺体の頭部が左側に向けられるのが普通だが、私は、敢えて右側という指導を社員に行った。

やがてお通夜の勤行を終えられたご住職が、「?」を抱かれたようで、社員の一人に私の本意をとおっしゃられた。

 さて、葬儀の当日。お寺様の控え室で打ち合わせの際、この問題に関して持論を披露することになった。

「西方浄土思想の宗教では、ご本尊の存在される方向を西と考えられないでしょうか?。そうすると向かって右が北となります。あるお寺様が頑なにご指導されておられるのです」

 私は、随分昔に読んだ仏教書にあった文字を思い出していた。それは「以信転方」という言葉で、「信ずるを以って方角を転じる」という意味で、そのことについてもお話をしてみた。

「面白いですね。一理ある考え方です。次回の住職研修会で論議するテーマになりそうです」

 ご住職は、そうおっしゃられたが、どんな結論となられるのか、早くご意見を拝聴したいと願っている。

2002/09/04   選挙に思う   NO 185

 注目されていた長野県の選挙知事が終わった。マスメディアが予測していた通りの結果で、田中氏が当選となった。

 私は、国政選挙から地方選挙に至るまで、選挙のニュースで放映される光景に大嫌いなものがある。

 それは、バンザイとダルマの目に墨を入れることである。

 全国で問題になっている議員の姿が重なり、万歳の光景が、本人や周囲方々が「やったぁ、これで金儲けが出来るぞ」と叫んでいるように見えて仕方がなく、私は、僻みっぽい性格なのかなと思っている。

 ダルマの墨入れに関しては、いかにも日本人的で低次元なパフォーマンスだと思っている。目が二つあるダルマ。選挙戦スタート時に片方に墨を入れ、当選時に両目が完成となる訳だが、落選した時にダルマが独眼のままで「可哀想」だと思わないのだろうか。

 私なら、選挙戦スタート時には「白のまま」。当選時に片方だけに墨を入れ、公約の仕事が完成と認められた時に両目と行きたいところだ。

 テレビで解説者が次のように言っていた。

 1に「自分の利益」 2に「おらが国さの利益」 3に「所属党の利益」
 いくら代議員としても、そんな議員達が多く存在すれば国家は滅びる。国全体と国民の将来利益を追求する議員が増えればと願っているが、応援する側に「自分の利益追求」があれば絶対に無理なこと。
 そんな本質は、10年や20年では変わらないだろう。

 えらく淋しい話ではないか。しかし、なんだか納得してしまう自分にも腹立たしく情けないとも思っている。

 もう10数年が経っただろうか、ある時、著名な国会議員が、突然、地元の有力者を伴って自宅へやって来られたことがあった。目的は市会議員の欠員選挙への立候補要請。
 午後の5時から10時まで、5時間の説得を受けたが、私の信念として頑なにお断りを申し上げた。

 自分のことは自分が一番よく知っているもの。私には葬儀屋が天職であり、悲しみという不幸な人達を少しでも不幸でないようにして差し上げる仕事が好きで、誰よりも誇りを持っている。

 これまでの人生で学んだアナウンストーク技術、道楽で身に付いた音楽に関するノウハウなど、それらは葬儀の変革の時代にあって大いに力を発揮することになっている。

 素晴らしい候補者だと思えば応援演説ぐらいは受けるだろうし、私が演説をすれば会場に来られている方々の中で、10人ぐらいの票の獲得効果はあると自負しているが、これまで何度か応援演説の依頼があったが、そのすべをお断りした。その原因は、応援したくない候補者であったからだ。

 葬儀に於ける議員や秘書の参列。そこに生まれる焼香順位。私は肩書きによる順位決定は大嫌いで、故人につながりがあれば許せるが、そうでなければ故人に申し訳ないと考えている。そんな式場で「無理強い」をされる議員には徹底的に戦う。それは、葬儀のプロである私のプロたる所以なのである。

2002/09/03   プロデュースの裏側で   NO 184

 昨日の「独り言」で音楽のパワーについて書いた。誰にも愛される名曲の誕生は1ヶ月で世界中に広まり、曲論だがこれを宗教に置き換えて考えたら、とんでもない教祖と言えるだろう。

 今、私の隠れ家に昨日からシンセサイザーが置かれている。これは、私の要望から弊社女性スタッフが持ち込んだもので、数日後から葬送音楽のレッスンを始めようとしている。

 楽器というものは、聴く人と奏者の間に存在する「物」でしかないが、奏者の心が伝達出来るレベルに達すると「人格」を有することになり、周囲を幸せにしてくれる。

 取り分け、葬儀に於いては、不幸の中で「少しでも不幸でないように」という空間環境を醸し出してくれることになるが、大半の葬儀社や葬儀に携わる演奏者達は、「悲しみの強調」との誤解をされてしまっているようで、それが「お涙頂戴型」という、私の最も好まない考え方なのである。

 過日にも登場したが、オリジナルCD「慈曲」が誇り高きテレビ番組「宗教の時間」で紹介された時、作曲担当の美濃三鈴さんが演奏していた曲は「時空を超えて」で、ナレーターを担当していた女性ナレーターは、「これは、遺族を励ます曲です」とコメントしていたことが印象に残っている。

 過日に行われた九州での社葬。この式次第の中でもこの「時空を超えて」をフィーチャーした。
社葬を主催される会社の社員の皆さんが、亡き会長さんのお好きだった言葉を掲示される情景に流れたこの曲は、式場に「そうだったね」「よかったね」という雰囲気が生まれ、私が描いていた環境空間が見事に完成することになった。

 総合プロデュースという観点からのキャスティングでは、葬儀に於ける音楽は単なる一出演者であり、最初から最期まで脇役に徹して貰うことが通常だが、私は、式次第の何処かで1曲の音楽に「主演」を担当させるシナリオを描くことも多い。

「この曲に何処かで出会ったら、故人を思い出してください」とのコンセプトを秘めており、この提案の説得は、「僭越」という考えを超越する納得につながっている。 

 多くの演奏者達と仕事を共にしてきたが、みんながびっくりされることも少なくなかった。それは、献奏曲の場面で、イントロを割愛してくださいという提案で、誰もが「?」を抱かれ、納得させるまで何度も熱い戦いをやってきたのも懐かしい思い出となっている。

 イントロを割愛するという背景には、当然、それだけの狙いがあるからで、敢えて戦いの終局のところで「本心」を伝えると、「なるほど」という納得の協力が得られることになるが、この部分は企業秘密。

 近々に始まる弊社の女性社員へのレッスンは、技術の前に葬儀に於ける音楽の重要性と意義を教育し、大切な方の大切な終焉の儀式に携わったという「誇りある仕事」と認識してくれることを願っている。

2002/09/02   音楽のパワー   NO 183

 宗教法人として登録されている宗教が山ほどあるが、活動が停止しているという状況のケースも非常に多い。

 歴史の流れを遡ると様々な宗教の誕生と発展は、その時代背景に左右されているのも事実。時の権力者の擁護を得て急速に発展したというのも多くある。

 森羅万象の一部が科学で解明されて行くに並行して、教義の一部に矛盾が生まれ、衰退を余儀なくされたというのも少なくない。

 ややこしい見るからにペテン師のような教祖が出現し、カリスマやマインドコントロールで信仰を始め、悲惨な被害者が発生するという例も世界中にある。

 宗教、国家、人種、イデオロギーなどをすべて超越し、数日の内に世界中に広がるものがある。それは音楽だ。

 単独の宗教音楽とは異なる一般的な音楽、これらは国境だけではなく異教徒の垣根さえも越えてしまう猛烈なパワーがある。

 いい音楽は短い期間で世界中に広がり、やがて名曲と呼ばれて歴史に刻まれ、人の寿命の何倍もの間に愛される存在となるのだ。

 映画やテレビドラマ、そこには情景の背景に音楽が存在している。音楽がなかったらどうなるのだろう。

 大切な方を送る葬送空間。そこで私が欲しかった音楽、それは儀式と癒しの演出音楽で、そんな道楽で制作につながったのがオリジナルCD「慈曲」であった。

 会場空間を変えよう。大切な儀式が始まることを伝えよう。そんな時、照明のダウンと共に流す音楽だけで環境空間に変化が生まれ、言葉の伝達がなくとも見事な効果を与えてくれる。

 日を改めて行なわれる社葬の場合、霊位、遺影、遺骨の入場が儀式として行なわれることがあるが、私は、そんな情景に「慈曲」の2番目に収録された「うたかた」を使用し、27秒のイントロ部分で照明のダウンを行なうことにしている。

 そして旋律に入った時、式場の扉が開かれ霊位や遺骨が入場される。この曲は非常にゆっくりなテンポで、6分間前後の収録となっており、ゆとりを持って言葉の演出に入ることが可能となり、全国のメンバー達で重宝されている。

 CD「慈曲」が完成してから、その中に収録されている10曲を数千回は使用したが、最近、この曲達の旋律の素晴らしさを再認識するようになってきた。

 この場面にはこれしかない。そんな選曲が可能な曲達は、生まれる前から「情景ありき」というシナリオ構成で創作されたものであり、1曲の収録時間も余裕が持てるように、5分以上の曲が9曲ある。

 一方で、一流と呼ばれる司会者の評価が高いという理由に、2コーラス目、3コーラス目や間奏部分を含めて、盛り上がり過ぎて音量を調整しなくてはならないというような編曲はなく、耳にされる方々にもさわやかに伝わるという秘められたアレンジも魅力のひとつとなっているようだ。

2002/09/01   再会に感謝    NO 182

 企業のトップや重職にある役員が逝去されると、社葬が行なわれるのが一般的。そんな時、私がプロデュースの基本に考えるのが「社是」や「企業理念」であるし、ご本人の抱かれていた信念や人生観も知りたいところだ。

 創業者の場合、役員変更をされ、その後の企業戦略が大きく変化したケースも多く見てきたが、ワンマン経営者と呼ばれていた企業では、時代の潮流から社是や理念が変わる率が高いようだ。

 10数年前に担当したある社葬。創業者が「企業というもの利益なくして存在価値なし」という理念で突っ走り、「社員に多くの給料や賞与を与えることが経営者の責任である」との信念を抱いておられた。

 後継者となった社長は、社葬が終了すると同時にその企業理念を全面的に変更し、社会に役立つ企業という文化の重視を全面に押し出し、多くの役員や古参の社員の大きな反発を買っていた。

 健康に関する日用品の製造会社であったその会社は、その変革から次々に社員が去り、やがて半分以下にまで減ってしまい、新しい社員を迎えることに力を注いだ。

 新社長の考えには「時代が変わる」との確信があり、それまでに一致団結した社風が重要と判断し、製造機械の入れ替え、仕入れ材料の厳選、社員の教育研修に膨大な投資を行い、お陰で10年間は赤字経営となってしまった。

 そんな中、世の中の流れが変わってきた。「今だ」と小さな船の帆を張る行動に出ると、潮時もあったのだろうが、船は猛スピードで大海にまで乗り出してしまうことになった。

 その企業には、今、素晴らしい社員の存在があり、急速な発展を遂げているが、社長は船の大きさを変えようとはしなかった。「今の弊社はこれでいい。台風の中でも乗り出せる大きな船になろう」と、航海士や乗組員となる中堅社員の教育に、また膨大な経費を掛ける行動に出た。

 それから3年後、競合する大手企業のトップが、社員訓示でその会社の存在について、次のような危機感を吐露した。

「数年で逆転されるだろう。なぜなら知恵と技術を持った『人』が最大の武器であり、残念ながら、この会社に育った『職人プロ』が創る製品には勝つことが出来ない。人を育てるには時間が掛かる。『人材』から『人財』になるには大変なことだが、『人財』は、また『人財』を育てるという能力を持っている。そこが最大の脅威である。弊社には、『人材』よりも『人罪』が多いのが現状だ。弊社が勝ってきたのは宣伝広報で、それらは情報社会の中で、消費者の動向を左右するパワーが落ちてきている」

 最近の社会を賑わす大手企業のモラル欠落。『商道』が『正道』から外れた時、取り返しのつかない教訓となっているように思えるし、知識優先社会の中で知恵の活用の重要性に気付く経営者が増えつつあることも事実だ。

 上記は、その変革を成し遂げた社長に伺った話だが、偶然に出会った小料理屋さんでのひとときが、私の意識改革につながることになったのは当然である。


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