2003年 3月

2003/03/30   手 直 し    NO 387

 弊社に四国と東北出身の新人がいる。訛りが少しあるが、基本的なことを教えればアナウンスにも挑戦可能だと思っている。

 しかし、彼らに困った問題がある。

 「行ってきます」と出掛けてしばらくすると電話が入り、「僕たち、今、何処にいるか分からなくなっているんです」
 
 つまり、大阪の地理が弱いのである。そんなところから地図を持たせ、懇切丁寧に教えてから出発をさせなければならず、先輩の女性スタッフが「しっかりしなさい」と檄を飛ばしていた。

 スタッフ達は、本当によく働いてくれて感謝している。今朝も夜中の3時頃までお客様のお家に参上していたスタッフが2名おり、彼らが帰社するのを事務所で待っていたスタッフもいたが、本当に葬祭業という仕事は不規則で、昼食なんてまともな時間に食べられることはなく、何より体調を崩さないようにと心配している。

 現在、全員がグロッキー状態。それぞれの担当責任者が「自分の責任で」と行動する姿勢に、「大変そうだから」とみんなが協力しているコミュニケーションが生まれ、新人達の成長に好影響となってくれているようだ。

 さて、故人の人生を表現するナレーションの創作は、本当に難しいもの。スタッフの取材に基いて書き上げて式場に行くと、どうもおかしいということが多く発生する。

 その要因の大半が「核家族」という問題にあるようで、生前のコミュニケーションの差異が明白に表れ、原稿の変更を余儀なくされることもある。

 ご伴侶と子供達の思いが異なることが少なくない。両者が「触れて欲しい」「触れて欲しくない」と対立することもあるが、こんな場合は両者に抵抗のないストーリーが無難な解決。

 後で揉め事になるような「種」はそれこそ禁句。そんな情報を伝わる空気で察する取材能力が求められる。

 今、明日、私が担当する2件の葬儀のナレーションを手直ししている。それは、お通夜から帰社したスタッフの情報から、ある部分を変更することにしたから。

ちょっとした事情が絡み、スタッフが苦悩している。そこで差し障りのないストーリーでつなぐことにしたが、こんな情報を把握してきたスタッフが成長しているとも言えるだろう。

 シナリオを創作する時、情報過多も困るもの。「これも言って」「あれも伝えて」となってしまうと整理をしなければならない。自分の思いを伝えたことが登場しなかったら不満になる。

 そこで、取材前の「おことわり」が重要になる。取材するなら誰でも出来るが、「おことわり」と「聞き流し」が出来なければ合格点は与えられない。

 ここで、これらの結論を申し上げる。答えはひとつ。創作者自身が取材をすることがベターなのである。

2003/03/29   それは、言い過ぎ。    NO 386

 葬儀の始まる前、お寺様の控え室にご挨拶に伺うと、肝心の導師さんがまだ到着されておられない。

 遠方からお車で来られるという導師さんは、ご遺族と深いつながりがあり、喪主さんも心配そうに外ばかり眺めておられる。

 時計を見ると開式の4分前。そんな時、お寺さんのお車が到着された。

 装束をつけられるだけでも時間が流れる。慌てて来られた動揺もあられる筈。何とか落ち着いていただくことから始めようと、担当責任者に10分遅れで始めるという命を出した。

 この10分間は、私の世界。言葉と音楽だけでつなぐことになったが、5時間連続でもやれるノウハウは持っている。

 そんなことを知っているスタッフは、誰も落ち着いたもの。考えてみれば私が来ていたからそうなる訳で、少し腹が立った。

 さて、この数日、今までにはなかった電話が入ってきている。それは、来月に行われる社葬の通知ファクッスが発信された頃から始まった。

 それには「偲ぶ会」や「お別れ会」という明記はなく、ホテルを会場とする「式」とされてあり、供花ご辞退にもかかわらず「何とか供花を」と要望されてくるのである。

 これは、きっと故人のご人望からだろうが、「どうにもならないのですね」と残念そうに返されるお言葉に申し訳なく思っている。

しかし、ご辞退されなかったら絶対に式場に入らない数の供花となるだろうし、この手配、整理、領収書の準備、順位の確定など、お客様だけではなく弊社も大変な作業を強いられることになった筈。

 過去に数百という供花を受けられたホテル社葬を担当したことがあったが、その時の前夜を思い出したスタッフが「ご辞退で助かりましたね」と言うと、隣に座っていたスタッフが「でも、売り上げがダウン」と呟いてシラケルことになり、この話題から離れることになった。

 弊社が加盟する日本トータライフ協会のメンバー数社が、見学を兼ねて手伝ってくれるというが、北海道からの「行きます」という電話に、スタッフ達が喜んでいた。

一方で、どこから耳にされたのか分からないが、あちこちののホテルやメンバーでない他府県の数社の葬儀社さんからの見学要望も入っている。

 その目的は弊社のオリジナル進行にあるが、そんな電話を担当していたスタッフが次のように応えていたそうで驚いた。

 「真似をされても結構ですよ。その中には知的所有権が弊社に帰属するものも多くありますが、これまで体感されたホテルさんや業者さんすべてが、『これは、絶対に真似が出来ません』とおっしゃってくださいます」

 それは、言い過ぎ。私の背中に重いものが乗ってきたように思いながら、来月になったらシナリオを創作しようと考えているが、時計を見るともうすぐ午後11時。明後日に私が担当しなければならない2件の葬儀のナレーションを創作することにしよう。

2003/03/28   変化する葬儀    NO 385

 人生最大の衝撃は、子供を亡くされること。儒教の強い国では「親不孝」という考え方から、葬儀を行わない風習もあった。

 昨夜、ご両親が悲嘆にくれられる御通夜が行われていた。

亡くなられたのは30代のご長男。それも突発的な急病でのご逝去。弔問に来られた方々の「信じられない」というお言葉と表情が式場に溢れていた。

 弊社の新人3人が式場に付いていたが、『悲嘆』という言葉の意味を少しでも学んでくれたと信じている。

 辛い思いを体験すると他人にやさしくなれるという言葉もあるが、体感に勝ることはなく、共に涙を流しながら時間を過ごすことは貴重な体験。

 弊社は、私をはじめスタッフ全員の涙腺が弱い。中でもマイクを担当する立場にある者が特に涙脆いのが「泣きどころ」。

でも、何年経っても変わることはないだろうし、変わって欲しくないとも願っている。

 私が明日に担当する葬儀は、奈良県からお寺様がお越しになる。大阪とは習慣が少し異なり、式次第にも微妙な違いがあるところから打ち合わせが重要となってくる。

 宗教や習慣が異なろうが「悲しみ」に変わりはない。

数日前に担当した葬儀の際、火葬場を往復する車内でのお寺様のお話に、「これからの葬儀は、導師と葬儀社が綿密に打ち合わせを行い、故人の葬儀をどのように進めるべきかと意見交換をするべきだ」というお言葉があり、思わず賛同してしまった。

 過去に東北のお寺様と激論を交わしたことが懐かしい。そのお寺様は「葬儀は宗教者がつとめるもの。導師と故人の世界である。葬儀の司会なんて全く必要ない。『只今より始まる。これをもって終わる』という、開式と閉式の言葉だけでよい」とおっしゃられた。

 当時、私も若かった。「それは誤りです」と反論したからたまらない。激論は10分間ぐらい続き、「面白い、勉強になった」というお言葉で集結したが、そこに至った私の反論は秘密とさせていただきます。(「参列者はどうなるのですか?」ということがヒントです)

 その頃からすると、葬儀は本当に変化してしまい、業者任せの葬儀なんて考えられない時代が到来している。

 弊社の葬儀は、他社とは全く異なるオリジナルな形式も有している。ご体感をくださったお寺様にも大好評を頂戴しているが、その方々に共通していることは、ご遺族の悲しみを深くご理解されておられること。

そんなご体験から、檀家さんのご不幸でお勧めくださることも増えてきたが、ご遺族や参列者から賛同されているのだから悪くないことだと信じている。

 「批判的な意見はないのか?」 そんなご心配をされるお方もおられる筈なので正直に申し上げるが、ご遺族の「悲しみ」をご理解されないお寺様の場合、お寺様がつとめられる時間を外して行っている。

 葬儀の導師をつとめられるお寺様。お寺が導師ではなく、宗教者という「人」が導師であるとの意識の異なりが、上述のような差異になるのかも知れないと考えている。

2003/03/27   進化へのプロセスで   NO 384

 担当してきた昨日のご葬儀、本当に静かなご終焉の儀式であった。

 故人の生い立ちナレーションを担当した女性スタッフ、緊張しながら真剣に取り組む姿勢に好感が持てたし、少しずつ成長してきていることが確認出来た。

 そのナレーションで男性スタッフの1人が目頭を押さえている。そんなやさしい心を持つ新人だが、身体がかなり大きくて目立つ存在。彼は、真言宗のお経を勉強しているところから、今日の葬儀が「和宗」でもあり、よい体験になっただろう。

 今日の導師をつとめられたのは、聖徳太子にゆかり深い四天王寺様。引導作法の後の「散華」の儀式が素晴らしく、会場空間に厳粛なイメージが生まれていた。

 ご出棺前に行われた喪主様の謝辞、これも素晴らしいご挨拶。今度はナレーターを担当した女性スタッフの目が潤んでいた。

 事務所に帰ると、約束していた様々な分野のプロ達が順に来社されて来る。限られた時間の中で依頼することを手短に話すことになったが、それぞれの方々が私の欲するものへの提案と決断が早く、予想していた時間に余裕が生まれるという嬉しい結果となった。

 隠れ家を出て下に降りると、女性スタッフが画像処理に取り組んでいる。枚数が多く、必要時間を確認して驚いたが、すべて手造り、それが当社の大切なソフトのひとつでもあるので仕方がない。

 食事の後「今日は10時までに帰ろう」と提案したが、誰も帰りますとは言わず、11時になっても終わらず、中には「今日、徹夜でやってしまいたい」と発言した女性スタッフもいた。

 時間との勝負となる葬祭サービス。それは、体験しなければ理解出来ないだろうが、大変な作業がいっぱいある。そんな中で、「これもしてあげたい、あれをやればお喜びなる筈」と、それが一生に1回限りの葬儀だけに、経費の問題を度外視して「匠」としての仕事に向かい合うことも多い。

 夕方に天空館を担当していた女性スタッフが帰社した。

「社長、ご親戚の方が、広島への出張葬儀は可能ですか?」とのご質問を受けました。

 そんな報告があったが、九州や北海道での担当経験を持つ我々でも、それは、密葬を済まされてから行われる「本葬儀」ばかりで「ホテル葬」が主流。ご不幸発生時にお電話を頂戴し、それからご遺体の存在される通夜と葬儀となれば時間という物理的な問題で不可能なこと。

 最近、そんなお問い合わせが増えてきているが、それらの大半は弊社が担当したご葬儀をご体験くださった方。不幸な儀式の中で「ほっと」されるひとときを創造するコンセプトをお感じいただいているように思う。

今後、これらの対応をどのようにするべきかという難問に頭を悩ませているが、手造り作業がどんどん増え、スタッフの技術アップだけでは対応出来ない物理的問題の解決には、スタッフの増員にしか道はなく、人事担当責任者に命を下そうと考えている。

2003/03/26   昨夜から今朝へ   NO 383

 昨日も多くの社員が夜遅くまで残業してくれていた。これからの1週間ぐらい、毎日こんな状況が続くことになるが、みんなのコミュニケーションがよい方向に進み、お客様のご満足を頂戴出来るようにとの思いを共有して邁進している姿が嬉しいところだ。

 今、午前1時を回っている。今日のナレーションの原稿を打ち上げた。

この原稿は、大阪市立斎場「安らぎ天空館」で行われる葬儀のもの。今日のお客様の担当責任者である女性スタッフにナレーターを担当させるため、彼女が苦手な言葉の表現部分を可能な限りやさしくした。

 音楽の選曲も彼女に任せ、本番でどの程度の力が発揮できるのかと興味を抱いているが、式場で原稿を渡すと、きっと驚くものと推察している。

 寝る前に服用しなければならない薬を飲み、風呂に入る。しばらくすると効力からか、湯船の中で身体が沈んでいくような精神的現象が発生するが、これで布団に入ると早く眠れる習慣となっている。しかし、それが良いのか悪いのかは考えないことにしている。

 続いて、この「独り言」の原稿を打たなければならない。疲れた目を擦りながら打ち込むが。こんな時には文字の転換ミスが多く、恥を掻くパーセンテージが高い。

これでも羞恥心だけは持っているつもりだが、過去にあった多くのミスを修正する行動は起こしていない。(過去ログの中に数百箇所ぐらいある筈)

 昨日は、2時間の間に3人のお寺様がご来社くださった。それぞれのご宗旨が異なるが、様々なお話をお聞かせいただき勉強になった。

 今日の私が担当する葬儀を終えると、多くの原稿を打たなければならない。最も本番が近づいている社葬は、準備期間が1週間しかなく、スタッフには焦りの色も見えているが、それぞれの技術力がアップしてきたので随分と楽になった。

 ああ、睡魔が襲ってきた。やはり入浴の効果が強烈。久し振りに眠ることが出来そうだ。

 そして、朝。事務所に入る。早いスタッフはもう式場に出発しているが、私が机に座ると同時に電話が連続で掛かり出した。事務所内にいたスタッフの人数では対応不可能。私も5件ぐらい受話器を手にした。

 今から私が担当の葬儀の式場に向かう。それが終わると映像の絵コンテ創作をしなければならない。これは、シナリオに関係するところからプロデュサーである私の仕事。

 ここまで打った時、掛かってきた電話の内容に女性スタッフが緊張している。それは、30代という若い男性の突然のご不幸。相手様がパニック状態に陥っておられる様子が伝わってくる。

 こんなケースでは、すぐにベテラン社員が担当のためにご自宅に向かうが、悲嘆の心理
を勉強している部長が「私が担当します」と言ってすぐに飛び出して行った。

 彼は、今、大規模な社葬のプロデュースも担当している。しかし、目の前の悲しみの発生を見過ごせないやさしい心の持ち主。

 私は、安心して大阪市立斎場「天空館」に出発する。

2003/03/25   プロデューサーとしての行動    NO 382

 ハードなスケジュールに追われている。私の仕事は「創作」、ないものを創造すること。その大半がシナリオ構成である。

 シナリオで重要なのは情報の収集。スタッフから入手する情報だけでは見えないことも多く、時には自身の目と耳で確認する行動を取ることもある。

 昨日、ある社葬のプロデュースのため、お客様のご自宅にご迷惑を掛けてきた。

故人が生活をされていたお家の中には生きられた「証し」がいっぱいある。置かれてある品々に思い出が詰まっている。ご遺族から拝聴する人生のひとこまが、私の創造の世界を拡げてくれる。

 社長さんがわざわざ車を運転され、会長さんが晩年を過ごされておられた仕事場にご一緒した。

 机上のガラスの下に走り書きのようなメモが残されている。それらの中には閃かれた人生訓的なお言葉がしたためられているものが多く、「現場100回」という刑事さんの基本哲学を思い出した。

 階段を上がる。それは、故人が何万回と通られたところ。ご案内くださった社内を拝見しながら社風が感じられてくる。営業本部の部屋ではひっきりなしに電話が掛かっている。社員の皆さんの活気が伝わるが、それは気持ちのいい空間。<こんな会社で働ける人達は幸せ>。瞬間にそう思った。

 取材のための訪問を終え、外に出る。少し雨が降ってはいたが春の兆しが感じられる。春をどのように表現するか、そのテーマからシナリオをスタートしようと考えているが、今日の数時間だけでも多くの収穫があり、整理割愛するだけでも大変な作業となるだろう。

 明日からキャスティングにも入るが、それぞれの世界のプロ達のスケジュール調整も難関。構築するためには何より順番が大切。そこから最大限のパワーを引き出し構成されていくもの。この間のプロセスこそにプロデューサーの力量が問われる。

 今日の朝から優先順位を決め、十数人のプロ達との接触が始まる。音響、照明、音楽、映像、画像処理、デザイナー、生花装飾、印刷、カラーコーディネーターなど、その世界が多岐に亘るもの。それぞれの基本の入り口ぐらいは勉強してきたつもり。

 プロに仕事を依頼する時、何より重視することは「感性」と「人柄」。これなくして納得に達する仕事は完成不可能。私は、この部分で誰よりも幸せ者。ブレーンの中にはそんな人物ばかり。数十日間を要するような世界が数日で可能となる。そこが弊社の最も強い部分。

 ご遺体があられる場合、通夜の式場で、「こんなことがこんなに早く出来るなんて、前からお願いされていたのですか?」という不思議そうなご質問が多いのも特徴。ここにも付加価値が生まれてくる。

 私の専門分野は、司会とプロデュース。シナリオ構成で大切にしているのはお帰りになるお客様の後ろ姿。そこに担当した仕事の成否が凝縮されている。

 反省はするが後悔はしない。与えられた仕事が無事終わった時、そんな私の哲学が再認識に至るように努力するつもりだ。

2003/03/24   悲しみの無視    NO 381

 今、午前1時を回っている。お客様の打ち合わせに出掛けているスタッフが2人帰社しない。情報からすると複雑な事情があるようだ。

 午前中にお電話を頂戴し、夕方に事前相談に来社されておられたが、その相談中のご家族の携帯電話が鳴り「危篤」が伝えられ、急いで病院に向かわれるというお気の毒な状況であった。

 それから1時間も経たない内にご逝去。病院にスタッフを向かわせた。

 ご家族の方はご存じないが、私は故人と生前に何度かお話をしたことがある。曲がったことが大嫌いで、素晴らしく人望のある方だった。

 事前相談に来られたご事情の中に大きな問題が秘められていた。ひとつは導師をつとめられるお寺様が有名な寺院の高僧。もうひとつは町の人達に迷惑を掛けたくないということであられた。

この方の町の役員さんにとんでもない人物がおられ、悲しみのご遺族を二重、三重に悲しませることで有名。故人は、そのことが許し難いことだというお考えを前々から抱かれておられたお方。そんな事情が複雑な打ち合わせになっているのである。

 これらを出来るだけ解決する方法として、式場を少し離れた大阪市立葬祭式場「やすらぎ天空館」ということで内定したが、「地元でやるべきだ」というヨコヤリが入ることが予想されている。

 故人の生前の思いを「何とかして差し上げたい」との思いが、町の有力者の高圧的な発言で消滅することも多く、それらは、これからも町でご遺族が生活を営まなければならないという心情が背景に絡む。

 結婚式なら自由に進められるのに、なぜ葬儀に入り込んで来られるのか不思議でならないところだが、単なる風評ではない事実に、葬儀社や料理屋さんへのリベート要求があるのだから救いようのない人物。

 「この町で葬儀は行いたくない」というお声をどれだけ耳にしただろうか。また、遺族が親戚の方々から「どうして葬儀で遠慮しなければならないのだ。この町はなんという町だ」と責められる光景を嫌というほど目にしてきたが、日本が文化国家でない証しがこんなところにも存在しているのである。

 数日前、大阪の中心部の町で担当した葬儀もそうであった。町のオジサンが1人で張り切り、遺族や親戚の方々の考えなど眼中になく、この町は「ワシの流儀」一点張り。お通夜の時には家族から嘆きのお声が聴かれた。

 スタッフのミーティングの時、「この町は信じられないほど時代遅れ」という意見もあったが、確かに21世紀とは思えない「化石」のような町だった。

 しかし面白いもの。葬儀が終わると近所の女性の方々が女性スタッフを呼ばれ、「こんな葬儀、初めて体験したわ」とおっしゃっていただき、10数枚の名刺が求められたという報告があった。

 そこでチラッと耳に挟んだ言葉が気になった。「そのオジサンは、地元の業者さんとリベートで結ばれている」ということ。葬儀で張り切る方がどこにもおられるものだと再認識した日でもあった。

2003/03/22   ドライブスルー   NO 380

 葬儀の司会を担当するために国道25号線を西に向かって行くと、「しまった」と気付く渋滞に巻き込まれてしまった。
 
 このお彼岸の頃、四天王寺さん、そして納骨寺として有名な浄土宗一心寺さんの前を通るのは避けるべき。今日に限って忘れてしまい随分と時間を消費してしまった。

 さて、今日の葬儀は「密葬儀」。ある会社の会長様というお方。ご自宅の近所の式場で進められたが、予想以上に参列者が多くて驚いた。これは、きっとご人徳からだろう。

 近くに幾つか社屋があるところから、ご出棺後、その内の2ヶ所を巡る行程を組んだが、それぞれの会社の前には社員さんが整列されてお見送り。一斉に「会長、有り難うございました」との掛け声にはグッときた。

 この会社の社葬は、後日にホテルをご利用されることで内定しているが、プロデューサーである私には、重い責務が課せられている。

 「この頃全国のホテルで流行の『ドライブスルー』的な社葬はやりたくありません」

 ドライブ・スルーとは言い得ておられる。この形式は、入り口で献花を受け取り、そのまま祭壇前で供え、立礼者の前を通り立食会場へというスタイル。つい最近、著名なホテルでの社葬に参列された時もこのパターンだったそうで、参列者からブーイングが出ていたとのこと。

 ホテルとは何と低次元なサービスを提供されているのだろうか。これらは私が数年前から指摘していたこと。全国を飛び回ると何処でもそんなご意見やご感想を耳にする。ご存じないのはホテルだけ。

 「当ホテルグループは、儀式たるものは一切しません」と宣言されている立派なホテルもあるが、「しません」ではなく「ノウハウとソフトがありません。会場提供と食事しか出来ないのです」と言われるべきだろう。

 全国に支店を開設されておられる今回のお客様は、あちこちのホテル社葬に参列のご体験があり、そんな中に私との接点が生まれ、今日のご仏縁を頂戴したものである。

 厳粛な儀式空間を創造し、参列される方々に緊張が生まれるようなシナリオ構成を予定しているが、それは、お飾り申し上げるご遺影の存在を考えると極めて当たり前のこと。それを理解せずしてホテル葬サービスは有り得ない。

 過日、東京で行われた著名人の偲ぶ会。発起人と遺族側の思いが異なっていた。私がアドバイスで重視したことは「礼節」であり、単なる展示会にするべきではないということ。遺品となった作品の展示よりも人生という「人」を明示するべきと言い切った。

 「集い」や「会」のレベルでは、故人と遺族に気の毒だ。命の尊さと悲しみの理解なくしてホスピタリティは語れない。私のプロデューサーたる信念と哲学が、ここにある。

 今、私のこんな考えを理解するホテルが幾つか登場してきた。それらはお客様の声を重視したから。日本のトップにランクされるホテルからの専属プロデューサー招聘は、それらをすべて分析されてからのもので、さすがに超一流のホテルだと思っている。

 無宗教形式をご要望されるホテル社葬には、プロデュースに併せ、音楽と司会が特に重要となってくるが、司式者としての司会力が必要であることだけは認識して欲しいもの。

 会や集いなら司会者でいいだろうが、無宗教形式には礼節という観点で『式』が不可欠。
そこに無宗教だけの『司式者』が求められてくることになる。

2003/03/21   来世に夢を託して    NO 379

 我が国では、毎日、約2700名の方が死を迎えている。これは、年間死亡者数を365日で割った数字。

 これを世界中の人口比率に当て嵌めてみると、世界では、毎日、約135、000名が亡くなっていることになる。

 日本の長寿国ということを割り引いて考えてみれば、20万人という数字に及ぶ可能性もあるだろう。

 天災や大事件の発生があれば一挙に数字がアップするが、戦争の犠牲者で増えることだけは避けたいもの。解決の出来ない悲しみの葬儀なんて誰も望んでいないもの。

 新聞各紙は1面から数ページ、戦争記事のオンパレード。「被害者」「犠牲者」の文字がいくつも登場するが、これらを読みながら、ふと、運転免許更新の際のことが思い浮かんできた。

 講習を受ける時間に、生々しい事故現場を撮影したビデオ放映がある。そして、「事故を起こさないように」「安全運転を」という指導の言葉があるが、飲酒運転の事故の記事が毎日のように掲載されているではないか。

 「葬儀の光景を見て欲しい」「悲しんでいる遺族の姿を知って欲しい」

 それは、悲劇の葬儀を数多く担当してきた私の思い。これらがどうしても戦争に被さってきて仕方がない

 私は、単なる葬儀屋。国家や大統領を批判する立場にはないし、こんなことを書くことは僭越過ぎるだろうが、国を動かす前に、また、運転免許を取得して車に乗る前には、命の尊さと悲しみだけは学んで欲しいもの。

 昨日、神様と仏様について私流の勝手な物語を書いたが、今日の毎日新聞朝刊に記載されていた記事の一文に目が止まった。
 
 それは、イスラムの「アズハル」の最高指導者の発言で、次の内容であった。

 『米国のイラク攻撃は政治的なものであり、宗教戦争ではない』 

 ジハード(聖戦)という言葉も飛び交っている。開戦直後のフセイン大統領の演説には「聖戦万歳」「神の下で勝利せよ」という発言もあったそうだ。

神や仏は争いを絶対に望まない筈。ニューヨーク・テロ事件では、衝撃の悲嘆にくれる人々の「オー・マイ・ゴッド」という叫びが記憶に新しい。

 トマホークが飛び立ってしまっては「念仏」や「法華経」でも止めることは出来ない。その発射命令を出す人、スイッチボタンを押す人にこそ「神仏」が必要なのである。着弾地の光景は、「神のみぞ知る」、そんなことは悲しいこと。

 過去に地下鉄サリン事件の発生があり、関わった「ゴッド」が被告の立場に置かれているが、突然に苦しくなって死を迎えた人達のことを考えたい。あの人達は、何の理解にも至らず殺害されてしまったのである。

 こんな危険な世の中、いつ自身が被害者になるか分からない時代。ミサイル攻撃を受けた時、攻撃をした相手のトップに怒りを抱いて死を迎えるならまだ少しの救いがあるかも知れない。サリン事件、あれは、それすらなかった無念この上ない死となったのだ。

 来世と神仏の存在を心から信じ、そして、祈る。

2003/03/20   神々の会議   NO 378

 出張中に開戦を知った。気の毒な犠牲者が予想される。犠牲者は被害者。その怒りの対象は戦争。これでは泣くに泣けない弱者の悲劇となってしまう。負傷者や犠牲者が出ないことを心から祈っている。


 宇宙に存在していた多くの神様が会議をされ、地球という星に人間を誕生させることにした。
 
やがて人間は争いばかりすることとなり、再度、神様の会議が召集された。
 
そこで素晴らしい案が出され、それが決行されることになった。それが「言葉」というもののプレゼント。
 
しかし、人間は争いを止めることはなく、また新しい案を試すことになった。
 
「それは、素晴らしい」と出席の神々に称賛されたのは、「葛藤」を体験させること。つまり、一人一人の人間の心の中だけで争いをさせることによって愚かさを知らしめることだった。 
 
だが、それでも人間は愚かで、他人と争いを始めてしまう。
 
困った神々は、ついに、これしかないという結論に達し、人間界そのものに『神』と『仏』を創造した。
 
さすがにこれは効力があった。神仏の存在を信じて崇め、しばらく争いが起きなくなった。

 少し平和な時代が地球に訪れる。しかし、それは束の間の出来事。すぐに争いが始まった。今度は神々が予想もしなかった事態が生じている。愚かな人間が権力を振り回し、自身を神と勘違いをし始めたからだ。

 それらは、信仰する対象が増え、神仏が山ほど誕生している。

 それが誤りであるということを教えるため、火山を爆発させ、地震や津波、また台風まで発生させ自然の道理を教えたが、今度はそんな現象から逃れることを売り物にする神仏までも登場する。

 そんな中、これらのことを予言した一人の神様がおられた。「お釈迦様の入滅後、56億7000万年後、人間を救う必要がある」と、弥勒菩薩の存在をご用意されていた。

 今、第2次戦争が始まった。宇宙で神々の会議が開催されているが、弥勒菩薩の派遣を早めなければ地球が保てないという決議となるだろう。

 「佛」の字の「弗」は否定を意味する文字。沸騰の「沸」は「水でないこと」。

 だが「佛」には愛も慈悲もある。愛も慈悲もなくなれば「佛」ではなく、単なる「人でなし」となるだけだ。

2003/03/19   空白の時間    NO 377

「ご存命中に、こんなお話しを申し上げるのは恐縮の極みですが」

 ちょっと事務所に寄った時、女性スタッフが電話の相手にそんな言葉を返している。

相手様は、葬儀の事前相談の方。万一の時どのようにするべきかのアドバイスを求められており、会話が進展する中、どうやら葬儀の予算に移っていることが分かった。

 参列される親戚や会葬者の予想人数を伺い、お布施から飲食接待費に関する話も交わされているが、しばらくすると、彼女が「それは、お客様がお決めになられることですよ」と返している。

 その内容は、一般的に判断されている葬儀費用のこと。いわゆる葬儀の総経費の中で葬儀社に直接関係する予算のことであった。

 「お柩とお花1対だけのご葬儀もございますし、30万円も50万円もございます。それらは弊社が提案申し上げることではなく、お客様がご自由にお選びになることなのです」

 そんなことを伝える彼女にもどかしさが感じられる。それは、<こんな相談は、電話ではなく直接面談で伝えたい>ということ。不幸を間近に控えておられるご家族の方に、安心感を与えて差し上げたいとの思い。

 発言を耳にしながら、その思いがしっかりと伝わることを願っていた。 

 こんなお電話を頂戴する大半の方々は、何処かで弊社が担当する葬儀に参列された方。

「**さんのお葬式、幾らのお葬式だったの?」

 そんな現実的なご質問も多いが、これらはプライベートに関することで秘匿するのは当たり前。続いて、「**万円ぐらいだったのでは?」とおっしゃる金額のすべてが実際の金額よりはるかに高額。それだけ評価をしていただいたことは有り難いことだが、そんな誤解というべき勝手な思い込みが頭痛の種。

 しかし、世の中は面白いもの。そんな問い合わせを経て実際に葬儀を担当すると、その誤解が一挙に解決出来る。「電話の話、本当だったのね。業者選びが葬儀のすべてということが理解出来た」と喜んでくださる。

 ご精算の時、「弊社名の『高級』の意味がお解かりいただけたようですね?」と申し上げると、「確かに高級だ」とご納得のお言葉を頂戴する。

 何処にも真似の出来ないオリジナルなサービス。
発想し、時間を費やして具現化されたそれらは、今、少しずつ「かたち」として陽のあたる場所に出てきたようだが、サービスの基本であり最も重要な『人』が揃い育ってきたことが私の一番嬉しいところである。

 ある葬儀の終了時、喪主さんの謝辞。そこで感激したことがあった。常識的なご挨拶の後、「今日の葬儀、オヤジは絶対喜んでくれている筈です。私は真剣に葬儀社を選び、そしてこのように満足のいく葬儀をすることが出来たからです。葬儀屋さんにも心から感謝しています」

 そのご挨拶が終えられた際、フォローすべき私の言葉が出なかった。後方に控えていた私。感極まってしまい、約10秒間の空白の時間が流れてしまったからである。それは、長い時間でもあり短い時間でもあった。

2003/03/18   ナレーターを担当して    NO 376

 私の家には猫が3匹いる。今、その内の1匹が発情期。ノイローゼになりそうな声で泣いている。そんな中でこの原稿を打っている。

 担当していた葬儀を終え、待たせていたタクシーに乗り、事務所に帰る。すぐに創作しておいたナレーション原稿とオリジナルなBGMのテープとCDを手に自宅に向かう。

 数分で着替えて次の会場にタクシーで走る。

 今度は式典のナレーター。第一部を無事に済ませて第二部が始まる。第二部はコンサート。これは、久々に心の扉を開かせてくれる音楽に浸るひとときとなった。

 演奏を聴かせてくださった方々は「日本華楽団」の皆さん。3000年の歴史を持つ中国の音楽を耳にする優雅な時間を過ごさせていただいた。
 
 奏者は6人、『大阮』『古箏』『二胡』『揚琴』『笙』『笛子場』などの音色の合奏を拝聴したが、音楽を聴き楽しむには聴く側の姿勢が大切。多くの曲が演奏された中、蘇州夜曲、夜来香何日君再来などが心に残る演奏となった。

 奏者の中に中国国籍の方が2人おられた。『大阮』を担当されている「襲林さん」と古箏のパート「載茜さん」だった。

 襲林さんは、在日の中国音楽家。芸術性、独創性などに於いてハイレベルな中国音楽の創造と普及、そして、楽器の編成改革など、東洋音楽の新しい芸術を実践される人物。上海音楽学院で作曲と指揮を学ばれて教職の立場にあった方。

 民俗音楽学の書籍の編修や映画音楽など多岐に亘る音楽活動の中、日本に於いて中国人以外で構成された中国民族楽器楽団「オーケストラ華夏」を創立。その後、「日本華楽団」をプロデュースされ、自らも演奏をされておられる。

 素晴らしい音楽は心の扉を開けさせる。やはり、本物の音楽と出会うと至上の喜びの時間共有となるが、今日は、特別に得をしたような思いがしている。

 さて、担当したナレーションだが、「あんな原稿をどのようにして創作されるのですか?」
「あなたは普通の人ではないですね?」「今日のナレーションは、初めて体験する不思議なひとときでした」 そんなお言葉を頂戴したが、皆さん、私の本業をご存じなく、それについては触れないようにしてきた。

 私は、決して特別な存在ではない。単なる悲しみのプロである。1万数千人の方々のご葬送の儀式を担当してきた実績はあるが、自身もこの日を迎えることを学んでいるから特殊な「味」を感じていただけるのかも知れない。

 そんな勝手な思いを抱きながら会場を後にした。

2003/03/17   ちょっと独り言   NO 375

 葬儀が行われた後、国民健康保険や社会保険に加入されている場合、手続きをされると葬祭給付金のようなかたちで定められた金額をいただけることになっている。

 これらは、数年前まで「自主申告制」となっており、知らずに権利を放棄されてしまった方が少なくなかった。

 弊社では、10数年前から葬儀を終えられた次の日に、これらの手続きの詳細文書が到着するように郵送しているが、このサービス提供が意外に喜ばれている。

 何度か申請書類を見たことがあるが、「埋葬費」という表記に誤解が生じていることも否めず、「当家は火葬したから」ということで行動に至らなかったという事例もあった。

 葬儀は終わった後が大変。名義の書き換えから年金や相続税の問題まで、悲しんでいる時間がないというお声を耳にしたこともあるが、突然死など強い悲嘆にくれられるケースでは、そんな行動が出来ないというのがあたりまえ。

 疲れと悲しみ、そんな中では1冊の本さえ開く気力はなく、弊社では、これら事後処理に関するすべてを10通の手紙に託して郵送している。

 一般的に葬儀社は「葬儀だけ」と思われがちだが、電話を受ける事務所はまるで「よろず相談所」。法事や仏壇、お墓の入魂に対するお布施の相談から、時には遺産相続の揉め事に巻き込まれることもある。

 とんでもない相談を持ち込まれる場合、必然として、我々が持つ専門知識以外ということになるが、これらに共通していることは「聞いて欲しかった」「話したかった」ということが多く、そんな鬱憤解消もサービスのひとつとなっている。

 しかし、こんな行動に秘められている大切なことを忘れてはならない。それは、遺族の心の中に生まれている「思慕感」への理解で、葬儀を担当した葬儀社は、悲しみの事実を知っているということなのである。

 「私が悲しんでいたことを知っているでしょう。見ていたでしょう。私、悲しくて寂しくて仕方がないのよ」

 葬儀社への後日の接近は、悲嘆の吐露という上記の部分が割愛できることになり、これを、私は「思慕感」という言葉で表現している。

 さて、今日の夕刊に訃報広告があった。亡くなられたのは、故 笹川良一さんの奥様。喪主をつとめられるのは衆議院議員の笹川 堯さんだが、故人が日本吟剣詩舞振興会の会長さんだったからかも知れないが、訃報広告の冒頭の一文が素晴らく、次のように表記されていた。

 『梅花咲き 桜花咲くを待たず・・・・』

 さあ、今から遠方のお通夜に出掛けよう。

2003/03/16   ホテル業界の変化    NO 374

 朝、駐車場に行くと大きな観音様が祀られていた。前号でしたためたように、百観音というのはこの旅館の山手にあるそうだ。

 女将さんから伺ったお話、私の頼りない伝聞が不確かで恐縮だが次のようなことだった。

 日露戦争に出兵された村の方々の無事な帰還を祈念され、地元のお寺の和尚さんが町まで托鉢に出掛けられ、集まった浄財で観音様を建立されたそうだ。

 お陰で全員が怪我もなく帰還され、やがて、感謝報恩の信仰が始まり、多くの観音様が祀られるようになったと言うが、そこから次々に不思議で霊験灼かなご利益を授かるところとなり、一挙に信仰が深まった歴史が伝わっている。

 この旅館の玄関を入ると、正面に観音様が鎮座されている。これは、ご主人が手造りされた立派なもの。そこから始まったお祭りは、NHKテレビをはじめとするマスメディアで世の中に伝播され、温泉と共に知る人ぞ知るという存在になっていた。

 さて、本来の目的であるホテルに行った。広大な敷地の中に贅沢に建てられたホテル。芝生の上で新郎新婦が記念撮影をしている光景が目に入ったが、別の棟では「お別れ会」が行われているし、コンサートも開催されている。

 ロビーに置かれているパンフレット類、そこにも人生の通過儀礼のすべてがサービス構築されたかたちで表現され、ブライダルと法要が段違いで並んでいる。

 数年前までは考えられなかったホテルサービスが、現実にこんな様相を呈してきているのである。

 全国の幾つかのホテルでは通夜、告別式が行われているし、昨年には有名な結婚式場の別棟で社葬が行われ、ご出棺をしている光景を数百人の参列者が見送られていたが、その多くの方々が、「こんな時代か」「そう言えば、最近、ホテルでの葬儀が流行しているな」という認識が生まれ、予想していた抵抗感や違和感が急激に弱まっているのも事実。

 それらは、そんな時代の到来を16年前に先見発表した私の立場が、やっと狂人扱いされなくなっってきた証しともなり、去就の迷いが吹っ切れた思いを抱きながら懐かしさを感じているところである。

 午後を過ぎると雨が降り出した。すべてが終わって東名高速道路に入った頃には土砂降り。お陰で豊田と三好間、そして大津と瀬田の間で渋滞に遭遇し、お疲れモードでやっと帰阪した。

 丁度渋滞に巻き込まれている最中、携帯電話が鳴った。時速10キロ以下のノロノロ運転なので応答すると、相手は会社の女性スタッフ。私の知人の身内に不幸が発生し、葬儀の依頼があったとのこと。

 知人という方は、大規模なホテルの宿泊支配人。日程からすると明後日ということになりそうだが、明後日は大変な日。ライオンズクラブの記念日でナレーターを担当することになっている。

 明日は、その原稿の創作も控えている。去年のこの日はナレーターを済ませた足でそのまま東京に飛んだことを思い出した。この日は毎年スケジュールの調整で悩む日。あれから1年、また齢を重ねたことを実感した。

2003/03/16   喧騒を離れて   NO 373

 今日、この原稿を発信しているのは静岡県。昨日、急用で夕方から出掛けることになったが、宿泊する旅館が予想もしなかった山の里。

新幹線の駅から車で約20分なのに携帯電話が「圏外」。部屋の中でパソコンを開いてみるとやはりダメ、市街地に出てきてから発信することになった。

 全国各地に出掛けるが、こんな所に温泉が存在していたとは知らなかった。

 倉真温泉というが、倉真は「くらみ」と読むそうだ。

 県道を山の方に走り、やがて案内看板を発見して右折。100メートルぐらい先に旅館らしい建物が見えたが、周囲が真っ暗。それが旅館という確証のないまま直進したが、その手前にある小さな橋を渡るのには度胸が要った。これは、体験した者にしか理解出来ないだろう。

 玄関横にいた2匹の大きな犬が、歓迎してくれるように尻尾を振りながら吠えている。

 やがて部屋に通され、時間が遅かったのですぐに別室で食事をしたが、箸袋の文字を見ると創業明治27年、歴史の宿と記されてあり、袋の裏には「百観音の歌」の歌詞があり、作詞者はこの旅館のご主人。

 この旅館は日露戦争で生まれた観音信仰に由来し、観音様にお参りされる人達を先導案内してくれる犬が数年前までいたという実話に興味を覚えたが、話題を呼んだその犬の写真が館内のあちこちに掲示されていた。

 食事を済ませて大浴場に行くと先客がおられ、「海老がお嫌いなのですね?」と声を掛けられ驚いた。

その方は板前さん。湯船の中で10分ほどお話しをすることになり、旅館の食事は料理の中の「御飯」が重要と偉そうなことを言ってしまって反省している。

 部屋に戻るとお願いしていたマッサージさんが来られており、すぐに始めていただいたが、この方の技術は本物。久し振りに心地よいマッサージに出会った幸せな時間を過ごすことが出来た。

 彼のお名前は「大場光洋さん」。推薦に値する方なのでご了解のうえで芳名を披露申し上げる。掛川方面のホテルや旅館に宿泊された時にはご指名を。きっとご満足に至る筈。

 さて、今日は、静岡にやってきた目的を果たすために今からホテルに行き、夕方に大阪に向かう予定。帰路の東名、名神の渋滞が気になるところ。

 そうそう、名神を走行中、竜王付近の反対車線で大きな事故が発生していた。その影響でこちらの上り車線も渋滞していたが、反対車線は完全な通行止め。対抗する車が1台も来ない。しばらく行ったインターチェンジで反対車線の車のすべてが降ろされていた。

事故は起こしたくないもの。また、巻き込まれたくないもの。スピードと車間距離を守った安全運転を心掛けながら、事故の負傷者が重症でないことを祈る。

 明日は、女将さんから朝食時に拝聴した観音様の歴史を書いてみようと考えている。

2003/03/14   若葉マーク    NO 372

 弊社の企画室長が、全国葬祭業組合連合会の主催するセミナーで東京に出張しているが、会場で日本トータライフ協会の若手メンバー達と再会したとの報告があった。

 そんな中、全国に点在する協会のメンバー数人が来阪、葬祭哲学の研鑽や司会の技術研修について熱く論議を交わしていた。

 一方で、今日は嬉しいお客様の来訪があった。過日に大阪市立斎場「やすらぎ天空館」で葬儀を担当した方のご遺族で、遠方からわざわざ御礼にお越しくださったのである。

 大切な方を喪われたご遺族の悲しみ、それは体験された人にしか理解出来ないほど強烈なもの。10年経っても癒えることがないケースも多く、時が流れて悲しみの本人が死を迎える前、<これで、あの人に会える>との安堵感が生まれるとも分析されている。

 ご主人を亡くされた50過ぎの奥様が、夫に代わって子供達を立派に育て上げなければと頑張って来られ、やっとの思いで2人の子供さんを嫁がせることが出来た時、一挙に悲しさと寂しさに襲われ、自分が夫を喪ったことに改めて気付き、そこから本当の悲しさが始まったという事例もあった。

 今、悲嘆を癒すことを目的とした著書が多く出版されている。「夫を亡くした人のために」「妻を亡くした人のために」というものもあるが、それらは同じ悲しみを体験した人達の体験談が中心になっており、ある心理学者が、「人によっては、時には暗く落ち込んでしまう危険性も秘めている」という分析をされ、悲嘆心理のケアの難しさを改めて知ったこともある。

 核家族の時代になり、それぞれが別の地で生活をしていると、親の死に対する悲しみの度合いに微妙な食い違いが表れることもあり、葬儀の形式についての「思い」の異なりから争いに発展した経験もしたが、これらにも「儒教」精神の希薄化を感じてしまう。

 さて、先月の終わりから弊社のミス・ホスピタリティにナレーターの研修を行っているが、今日、たまたま来社された葬儀のプロ達を前に、彼女が嫌がるのを無視して、業務命令というかたちで「お披露目」をさせてみた。

 左手に原稿を持ち音楽が流れる。スタートのタイミングを計る彼女の右手のマイクが震えている。やがてスタートして4分40秒のナレーションが終わると、プロ達が拍手を贈ってくれたが、それらははっきり言って儀礼的なもの。

 しかし、彼らは、やはりプロ。私が思っていることと同じ感想を伝えてくれた。

 『一生懸命にやっている。その心情が伝わってくる。きっとその気持ちが遺族に伝わる』

 それは、若葉マークの時代だけに感じ許されるものなのかも知れないが、この新鮮で真剣な姿勢こそが重要で、大切にして欲しいと思いながら育てている段階。

 多くの司会者達を研修してきたが、プロでないのにプロに見せようとするのが最も粗悪な司会者。司会で大切な心は『未熟者です』『まだまだ勉強を』という謙虚な構え。それを磨いて行った先に「品」を感じる司会者となる入り口があるのだ。

 今日、高知県の「おかざき葬儀社」の岡崎 道さんのナレーションも拝聴した。彼女だけの持ち味である「気品」は、その人柄のやさしさあふれる旋律的メロディラインに乗せられ「貴品」を感じるレベルにあったが、弊社の大切な人<財>育成にあって、大きなヒントを頂戴したひとときであり、ミス・ホスピタリティの目が輝いていたのが嬉しかった。
 
 『すくすくと 育てきたりし庭の花 思いあるなら春を迎えよ』 もうすぐ、本番だ。

2003/03/14   健康診断    NO 371

 社員の健康は何より大切。心身の健康なくしてよい仕事は出来ない筈。

 「顔が紅いぞ、熱はないのか」 「風邪を引くなよ」 「事故を起こすなよ」 「引ったくりの被害に遭うなよ」

 毎日そんなことを言っているが、聞く方もさぞかしウンザリしているものと推察している。

 そんなスタッフ達、数日前から定期的な健康診断に行っている。仕事の関係で数人ずつとなるが、それぞれが健康であることを祈っている。

 通夜の担当責任者となれば、帰社するのが午後10時を回るし、葬儀の依頼は24時間体制。日頃の健康管理はプロとして当然だが、そう言う私自身が毎日薬を服用しているのだから説得力に欠け、ここが泣きどころ。

 さて、大切な方を喪って葬儀に臨まれる時、その遺族の健康状態に大きな変化が生まれるもの。それらは少しでも休もうと思っても、寝付くことが不可能なほど精神的な高ぶりがあり、そのしわ寄せが葬儀の終了後に押し寄せる。

 病院での看護からすれば大変な疲れ、その上に「悲嘆」という未曾有の心情が被さってくる。

 「やっと葬儀が終わった」 そう思っている頃、次から次に訪問者がやって来る。それらは「不幸を知らなかったのです」という方々が大半であるが、中には香典返しビジネスのセールスもいるから立腹される。

 セールスは、少ない場合で4社。多い時には8社というケースもあった。

 そんな怒りのご体験から、「紹介するなら、どうして1社にしなかったの?」とのお電話を頂戴してびっくりする。業者の中に、「大阪高級葬儀からの紹介です」というセールストークを用いている人物もいるようで始末が悪い。

 「ご位牌のご準備は?」 そんなプッシュで仏壇屋さんもやって来る。もちろんターゲットは仏壇の販売。これらが葬儀の次の日に訪れるというのだから恐れ入る。もっとTPOを弁えて欲しいものだ。

 変な誤解で怒りのお電話。これらは私や社員の精神的な健康を害するもの。そんな事例を先に伝えることが足りなかったと猛省を促したこともあったが、クレームを表面化されずに誤解されたままのお客様もおられる筈。

 「本当に有り難う。あなた達に感謝しています」

 そんなお声やお手紙を頂戴すると、心の病が消え去るもの。すべてのお客様に、そうおっしゃっていただけるようなサービス提供を目指しているが、この頃、そんなお声が多くなり、精神的には健康状態。

 「病は気から」という言葉を思い浮かべながら、悲しみの遺族に接する日々を過ごしている。

2003/03/12   戦争の悪夢    NO 370

 私は、戦後の生まれ。だから戦争については映画やドラマ、また新聞やテレビの報道からしか知ることは出来ないが、家族を失うということがどんなに悲しいかということは、毎日のように体験しているので知っているつもりだ。

 学生の頃、弊社のベテラン社員に昔のことを教えてもらったことがあった。白布に包まれた「英霊」という名の遺骨で何度も悲しい葬儀を体験したことかと。

 そんな話の中に、それが定かかどうかは分からないが、遺骨がなく、遺品だけというケースも多くあり、それらが本人の物かどうかは不明で、遺族は信じることでしか救いがないと語っていた。

 戦争の被害者の葬儀は担当したくない。遺族の悲しみと怒りの対象がどこに向けられるのだろうか。疑問でならないところである。

 高知県の「おかざき葬儀社」さんが毎日発信されている「ほっと一息」に、昨日、戦争についてししためられてあったが、新聞の報道を見ていると最悪の事態を迎える危険性があることも伝わってくる。


 私は、大阪城ホールを埋め尽くす人々の中に立っていた。特設されたステージでブッシュ大統領が演説をしている。その横には北朝鮮の将軍様もいるではないか。

 『イラクをこのまま放置していれば、この10年以内に近隣諸国は武器による恫喝でホールドアップをさせられることになる。その時、アメリカに救いを求めても手遅れだ。本当はフセイン大統領と側近だけを攻撃し、政権の転換を謀りたいところだが、それではテロと非難され、何よりアメリカのプライドが許さない。ここに北朝鮮の金将軍がおられるが、いつ、日本にミサイル攻撃をしてくるか分からない人物だ。ここは、大阪。大阪には在日の韓国人、朝鮮人が多く暮らしている。だからと言って、ミサイルが大阪に来ないとは限らない。そんなに精巧な技術がなく、何処へ飛んで行くか分からないという代物だ。また、在日の人々に武器が手配され、決起される危険性もある。大阪の市民、日本の国民の皆さんは、その危険性をどこまで感じているのか甚だ疑問だ』

 そんな変な夢を見た。マスメディアの伝えるニュースがイマジネーションされて夢に登場してきたのだろうが、ものすごい疲労感に襲われた目覚めの悪い夢であった。

 人は愚かな生き物。自転車や家に鍵を掛けなければならないのが現実だし、国家社会に警察も必要であるだろう。しかし、国家同士の戦いに備えて武器を開発することは愚かな証し。ましてやミサイル使用などは地球の引力の誤まった活用で、人類が生かされている地球に対して申し訳がないではないか。

 アメリカ、イラク、北朝鮮、いずれの指導者であるトップも同じレベル。正義とは、「不幸でないようにすること」への努力。それが政治家と宗教者に課せられた責務。

 こんな指導者の政権にあれば、我々葬儀社が忙しい。葬儀社が自然死だけの暇な世界が望ましい。

 悪夢が現実にならないように、そう願う庶民の対象が宗教しかないのも寂しいし、その背景に宗教が複雑に絡んでいるところが悲しいところだ。

 地球から太陽までの距離は1億5000万キロもあるそうだ。そんな遠くで爆発を起こし、我々に光と熱を送ってきてくれている。そんな宇宙の神秘な恩恵で生かされている人間。
住む地球にあるマグマの存在と、人の心のマグマである真っ赤な血液が、透明な涙に変わるプロセスだけは忘れないで欲しいと願っている。

2003/03/11   大相撲 大阪場所     NO 369

 今、大相撲の大阪場所が始まっているが、そんな中、私の友人の喫茶店に、北の湖親方がよく来られている。

 去年の大阪場所の時には銭湯にご一緒したそうで、その銭湯は私の自宅前。たまたま来ていたお客さんが驚かれ喜んでいたと銭湯のおばさんからも伺った。

 そんな気さくな親方だが、理事長に就任されてからは重責に追われ、お疲れモードだそうでマスターが心配していた。

 北の湖親方の部屋があるのは、この喫茶店のすぐ近く。由緒ある禅宗のお寺で、今のご住職の入山式と結婚披露宴の司会を私が担当している。

 そんなえにしをお結びいただき、北の湖部屋が初めて大阪のこの地に来られた時、前ご住職が数百人という盛大なパーティーにお招きくださったことがあった。

 会場に入って受付に行くと大きな赤いバラのリボンを渡され、恐縮しながら指定されたテーブルに行って驚愕した。

 そこはメインテーブル。親方と美人の奥様のおられる席だった。

 やがて祝宴に入った。ボーイさんの代わりと表現したらいけないが、お付きの力士が専属みたいに世話係。グラスを置くとすぐにビールを注いでくださるが、ビール瓶がコーラ程度にしか見えなかったという印象だけを妙に覚えている。

 私の本業をご存じでない親方や奥様からお酒を勧められるが、ビールの中瓶1本が限界の私。いつもグラスで何杯と確認しているが、この時は担当の力士さんがいつもグラスを満杯にしてくれるお陰で、途中でどの程度飲んだのか不明になり、<これはいけない>とその理由付けの対策に水割りを所望したのが懐かしい。

 ある時、彼の喫茶店で、先に来ていた若い男性を紹介してもらったことがあった。

 その人は、中学を卒業してすぐに行司の世界に入門。現在、三段目の仕切りを担当しているそうで、めったに耳にすることのない行司の奥深い話を聞かせてくれた。

 喫茶店で現役の力士達に遇うこともあるが、やはりその大きな身体には驚かされる。中には、2台の椅子でも足りない人物もおり、いつも窮屈そうにテーブルの固定席に座っているのが気の毒だ。

 マスターには人望がある。若い力士達が大阪場所でやって来ると、必ずお土産持参で挨拶に見える。それは、親方のよく行く店ということもあるだろうが、彼の好意である特別メニューの為すことかも知れない。

 「頑張れよ。親孝行に親方孝行。早く関取になれよ」

 そんなマスターやお客さん達の励ましの言葉があたたかい。

 さて、今場所はどうなるか。楽しみな2週間ではある。

2003/03/10   悲しみの裏側で     NO 368

 この数日に担当した葬儀にスタッフ達の成長が見え、嬉しく思っている。

 スルメがお好きだったお爺ちゃんのためにと、買ってきたスルメを柩の中に納めてお喜びいただいたこともあったが、いつも散歩されておられた愛犬の撮影に行き、その写真を納めた葬儀でも感動のお言葉を頂戴した。

しかし、そんな彼らが、昨日の葬儀では大変な苦労をしていた。

 お名前が梅雄さん。そんなところから『梅の花』がお好きだったということが分かったが、取引先の生花会社にも手持ちがなく、あちこちに手配することが始まった。

 女性スタッフの1人がインターネットを駆使して探しているが、これもダメ。
トータライフ協会の掲示板を通じ、暖かい地方のメンバーに協力を願い、航空便の宅配で入手という策も考えたが、取引先の花屋さんは「花は花屋が責任を持ちます。葬儀だけに集中してください」との有り難い言葉を贈ってくれた。

 当日の朝から創作したナレーションも二通りを用意。梅の花の有無でストーリーを変える準備をして式場に向かった。

 やがて、導師の焼香が終わり、表白の法儀が始まる寸前、式場の外を担当していた数人のスタッフに動きがあった。

 1台の車が着き、生花会社の専務が立派な梅の花をラッピングしたものを手に、誇らしげに持って来てくれた。受け取った女性スタッフからインカムでそれぞれに情報が伝えられる。

 私のサイドに待機していたスタッフから「届きました」と報告が入る。それは表白を終えられる2分ぐらい前の出来事。すぐにパソコンを開け、梅の花バージョンのナレーションへの変更作業に入り間に合うことになった。

 この葬儀は、本当に悲しい葬儀。定年を迎えられ「さあ、これから夫婦で人生の黄昏を過ごそう」という矢先、ご主人が突然の不幸に遭遇されご急逝。奥様のご悲嘆と落胆振りに目を覆いたくなるような状態に、女性スタッフと共に男性スタッフの数人も涙を滲ませていた。

 梅の花の入手で、奥様やご親戚方々のお心残りのひとつが解決することになった。ささやかな行為ではあるが、我々自身の心残りの解決にもつながることであり、担当スタッフ全員がほっとしていた姿が美しく見えた。

 ナレーションは、お寺様のご了解を得て、いつもより時間を掛けてナレーターを担当した。合計時間が7分25秒。前半の3分が「命バージョン」、後半を「人生表現」として組み上げてみた。

 参列者の中にも涙を流す人がおられたが、これは、決して「お涙頂戴型」ではないので誤解されないように願いたい。

 強い悲しみには涙を流すことが自身を守る大切な手段。涙の源は真っ赤な血液。それが透明になって滲み出るまでのプロセスに重要な意味が秘められてあり、より澄んだ涙を流していただくシナリオ構成を考慮している。
 
 二流の司会者がされるような単なる「お涙頂戴」では、透明の度合いがはっきりと異なる。私は、そんな自信を哲学として実践しており、ここに葬祭心理学の分析に生まれた司会者とは異なる「司式者」としての誇りを抱いているのである。

 悲しい葬儀が終えられたが、奥様の本当の悲しみがこれから始まるのである。担当スタッフには、そのケアのお手伝いに万全を期するように命じた。

2003/03/09   ラテンの調べ    NO 367

 友人の喫茶店に立ち寄ると、私への託があると言われ、1枚のCDを手渡してくれた。

 タイトルは「西川 慶 情炎のラテン」 過去ログの「NO 280 ラテンのプロ」で紹介した彼の新しいアルバムであった。

 編曲やバックの演奏を担当しているのはメキシコの一流ミュージシャン。
ビオラ&レキントギター、ギタロン、トランペットがフィーチャーされ、ラテンの軽快なボレロリズムが見事に奏でられていた。

 西川氏は、満州で生まれ、京都大学在学中はアメリカンフットボールのキャプテンをされていた人物。当時に来日したトリオ・ロス・パンチョスの音楽に接し衝撃を受け、メキシコやブラジルなど、南米で本物のラテン音楽を学んできたプロである。

 日本では懐かしいテレビドラマ「七人の刑事」のハミングで有名となった主題曲を担当され、自身が作曲された「コーヒーのある情景」や「未来」を何度か聴かせていただいたが、オリジナルなジャンルの音楽として有線放送でも話題を呼んでいた。

 今回に挿入されていた曲は「ベサメムーチョ」や「アドロ」「ある恋の物語」など8曲だが、彼自身が訳詩して歌っているものだった。

 ギターの演奏技術も卓越され、何より言語の発音が素晴らしく、隠れたファンの存在が多くあり「すたーらっぷかんさい」を主宰され、自然体発声法の普及を目指し、NHK文化センターなどでプロへの歌唱指導も行っておられる。

 過去にも書いたが、私がプロデュースをした「慈曲葬フェア」や「チャリティーコンサート 映画音楽の夕べ」にも出演を願い、会場で万雷の拍手を頂戴したのも懐かしい。

 素晴らしい音楽は、聴く人の心の扉を開けることの出来る国境のない外交手段のひとつと言えるだろう。

 私は、彼がノスタルジックに童謡を歌い上げた「日本の心の歌」のCDアルバムも持っているが、本物の音楽を愛する人たちにはすこぶる評価が高い。ご興味を抱かれるお方は、是非、彼の音楽に接していただきたいと願っている。

 西川 慶 『 情炎のラテン 』   ST12C−002    
  発売元  株式会社 ジャンクファクトリーレコード
  制 作  スターラップレコード

 西川 慶 『 日本の心の歌 』    ST12C−001 

 以上、友情の立場でお知らせ申し上げます。

 西川さん、有り難うございました。ご活躍を衷心から祈念申し上げます。

2003/03/08   勝手な思い込み    NO 366

 車で町を走っていると、あちこちで「アパマンショップ」という看板や幟を見掛ける。

 恥ずかしいことを吐露するが、私は、つい先日まで、これを「アンパンマン・ショップ」と勘違い、<アンパンマンとは凄い人気があるのだ>と勝手な思い込みをしていた。

 ある交差点に赤信号で停まった時、その看板が目に入り、ふと、中を覗いてもアンパンマンのキャラクターらしきものが見えない。そこでしっかりと読み返した時、それがアパートとマンションを斡旋するビジネス店舗であることに気付いた。

 過去に孫を伴って、高知県にあるアンパンマン・ミュージアムに行ったことがあったが、そのことが勝手な思い込みの原因のひとつであったのかも知れない。

 その孫から、昨日、電報が届いた。私の誕生日に対するメッセージだが、これが、またとんでもない代物。日頃に弔電ばかり代読している私には驚愕するものだった。

 一昨日に孫から電話があり、「ハム太郎とドラえもん、どっちが好き?」と訊かれ、何も考えずに「ドラえもん」と答えたが、その「ドラえもん」が祝電として配達されて来たのである。

 ドラえもんとドラミちゃんのかわいい縫いぐるみが円筒を抱えている。その円筒の中にメッセージが入っていた。

 弊社の女性スタッフに「ドラえもん」クラブのメンバーがおり、「これ、今、人気があるのですよ」と教えてくれたが、私は、一瞬、ドラえもんとドラミちゃんが喪章をつけた弔電を想像してしまった。

 世の中は日々に流れ、変化している。どんな世界でも発想の転換が求められてきているが、それらは葬儀にあっても例外ではない。

 私は、個性化、多様化、無宗教、ホテル葬など、葬儀に関する社会ニーズの変化への発想転換は誰よりも早かったと自負しているし、10数年前に提起して嘲笑されたことがすべて現実になっており、当時から構築してきた知的所有権に帰属するオリジナルサービスがやっと注目される時期に至っている。

 葬送のサービス提供は、今後、急変して行き、葬祭業界と宗教界での「淘汰」がもの凄いスピードで押し寄せてくると確信している。

 自身の専門分野で抱いてしまう「勝手な思い込み」が、自身の仕事と人生に大きな影響を与えることも知っておきたいところ。

 日本トータライフ協会のメンバー達は、今、これらのことを最大の危機と理解し、葬送サービスの原点である「悲嘆」の研鑽に取り組んでおり、着々と成果を挙げつつある。

危機の分析にあって発見出来たのは「遺族の悲しみ」。その理解への努力なくして葬祭業は成り立たない。そこが互助会や大手葬儀社と異なるプロの世界。

非日常的な出来事である葬儀。悲しみのドサクサに紛れて行われてきた葬儀が、今、確実に見直されてきている。そんな隙間産業が、情報社会の中で揺れ動いている時代の訪れだ。

 今日は、遠方で気の毒な事故死の方の通夜がある。ご遺族のお悲しみが強く、そんな葬儀に従事する際、自身の勝手な思い込みがマイナスになることも少なくないことを心に刻む。

2003/03/07   台風の思い出     NO 365

 今日は、私の誕生日。偶然に丁度1年分にあたる365号を発信することになった。

 午後にお寺で行われる91歳の方の葬儀を担当するが、予報では風雨が強くて参列者に気の毒な日になってしまいそう。午前中に雨が上がってくれることを願っている。

 朝にスタッフから、交通事故で亡くなれた方の葬儀の依頼が遠方から入っていることを耳にしたが、また悲しい葬儀となるだろう。 

 一方で、2日ほど前、スタッフが福祉の葬儀を担当していたが、家族の方が役所で指定業者の一覧表を見られて、「この葬儀社に」と弊社をご指名くださったそうだ。

 お布施、文書料、供物料などを6万円少しと定められており、これらを我々が立て替えて遺族に渡す葬儀。これらを含む総経費は霊柩自動車や人件費を総合してすべてが19万円台の金額。

 この葬儀でお孫さんが「お婆ちゃんに」と、お別れの言葉を捧げられた聞き、スタッフの中にあたたかい空気が生まれていた。

 さて、あるお通夜の席上でお年寄り達とお話しをしていると、昔話の中に大きな被害に遭遇された第二室戸台風のことが話題として登場し、私もこの台風に強烈な思い出があったので大いに盛り上がった。

 昭和36年9月16、室戸岬に上陸した台風18号。当時ミリバールと表現していたヘクトパスカルが925、室戸での最大瞬間風速が84メートル以上。尼崎市に再上陸した際でも60メートルという猛烈な台風であった。

 この年、私は中学2年生。トヨタのパブリカが登場し、ベルリンの壁が構築され、人類初の宇宙旅行となったガガーリンの「地球は青かった」というのもこの年。流行歌は、今もカラオケデュエットの定番となっている「銀座の恋の物語」が歌われつつあった頃だ。

 住んでいた長屋の大屋根にあった物干し。親父に手伝わされて近所に恥ずかしい思いを抱きながら、太いロープで固定した。

 それは、台風の来る2日前のこと。ニュースで伝える大型台風との情報で、心配性のオヤジが行動を起こした訳である。

 さて、襲来当日の昼頃には、もう外に出ることが出来ない烈風が吹いている。午後の2時頃のことだった。2階で地震かと思うような大きな音と衝撃があった。上がって窓から覗くと、右隣のお家の屋根に大きな物干しが突き刺さっている。トタン屋根に穴を開けてしまったところからどんどん雨水が浸入していっている。

 「風が治まったらお詫びに行き、弁償もしなくてはならないだろう」そんな会話をオヤジとしていたが、夕方になり少し風が治まった頃、表に出て向かい側から屋根を見た時にびっくりした。
 当家の物干し台がそのまま残っている。なんと、反対隣の大きな物干し台が、当家を飛び越えて吹き飛ばされていたのである。

 太いロープで結んだ効力があったのである。安堵したと共に、オヤジの心配性が功を奏した事件ともなり、「万が一」や「IF」という心構えが植えつけられた出来事でもあった。

 大阪市内の四分の一の家屋が床上浸水した水害も凄かったが、当日に行われる予定の弊社担当の葬儀が2件順延されたということも歴史に刻まれている。

 あれから42年の経過。心配性のDNAが継承されているのは確かなようだ。

2003/03/06   教育の歪み   NO 364

 ある事件を伝えるテレビを見ていた。若い女性が殺害されたという事件。女性リポーターが警察の前でコメントを伝えている。

 その彼女を囲むようにして野次馬らしき人々が30人ぐらい映っている。大半が若い人で、その多くがテレビに「映ろう」という行動が見える。

 そんな中、「Vサイン」を出している人が数人いた。

 <自分の愚かさを曝け出してどうするの?>

 私は、つい、そう叫びたくなった。悲しみの遺族や友人達が見ていたらどうするつもり?

 彼らには、そんな思いが消え失せている。

これらは、自然災害の現場を伝える現地リポーターの光景にも多いし、被災地や被害者の家の前で記念写真を撮影している光景を見たこともある。

 一方で、ある中学校の校舎の前で葬儀が行われた時のこと。前日に設営をしていていると、式場を拝借したお寺の奥様が申し訳なさそうに私に伝えられたことがある。

 「この学校の生徒、どうにもならないのです。遺族や参列者に罵声を浴びせるのです。何度も学校側にお願いしたのですがどうにもならないのです」

 このお寺で弊社が担当したのは初めて。通夜の最中、スタッフ達にそのことを伝えて次の日を迎えた。

 葬儀が行われたのは午前中。チャイムが聞こえて休み時間になった時のことだった。2階と3階の多くの教室の窓が開けられ、愚かな生徒達の罵声が始まった。

 「おめでとう」「地獄へ落ちろ」「坊主丸儲けやな」

 「めでたい、めでたい」という数人の唱和もあった。後方で先生らしき人物が制しているようだが治まらない。見るに見かねた会葬者の方が「馬鹿者」と叫ばれた。

 「おっさん、何や。おっさんも地獄行きや」

 生徒の中にはセーラー服も見え、黄色い声も聞こえてくる。ある程度の想像をしていたが、これ程にひどいとは思いもしなかった。

 彼らにも親の存在がある筈。家庭でどんな教育をされているのだろうか。これこそ親の顔を見たくなったものだ。

 やがてチャイムが鳴って静かになった。教頭先生らしき方が謝罪に来られている。参列者から「何という学校だ。どんな教育をしているのだ」と怒りの声がぶつけられるが、ただ頭を下げるばかり。本堂内で悲しみ儀式が続いている。

 暗いニュースばかりの社会。こんなところにその「DNA」が潜んでいるような気がしてならない体験であった。

2003/03/05   忘れられないご夫婦   後編   NO 363

 二人の結婚生活にとって、将来計画に「めりはり」をつけて、どのように描くかという課題があった。オヤジの体力の盛衰も考慮し、40歳をボーダーラインとした。

 それまでの日々は、若さゆえに出来るアウトドアスポーツや、趣味に対する時間と費用を惜しみなく投入する。貯金はしない。

 オヤジは、後に新築した居宅にゴルフの練習用に使えることを基本とし、200坪の敷地を幸いに、打ちっ放し、グリーン、バンカー、20ヤード程度のアプローチ練習などが可能なように施行した。

 また、夏と冬には、どんな事情があろうと休暇をとり、一週間から10日を費やして、毎年、日本アルプスを中心とした夏登山。そして、冬スキーと温泉を楽しむことを目論見、実行した。

 40歳を過ぎると、体力相応に「油絵」「著名な作品展示会」の見て歩き。また、海外旅行などへと、趣味と楽しみを移行させていった。

 オヤジの定年後、自宅の離れにアトリエを建て、彼女は終生の習い事と決めた「この道」にのめり込み、死の直前までキャンパスに向き合っていた。

 平成12年、この年は、我々二人にとって、古希、喜寿、金婚と、三重の喜びにひたれる筈だった。油絵は、庭を開放して二人の作品展を設け、ちょっと豪華な記念パーティーと、価値あるイベントを企画した。

 30年間住み慣れた現在の地は、この1、2年の内に引き払い、大阪の市内に50坪程度のバリアフリー化された住宅を「終の棲家」とすることを決めていた。

 結婚節目の年に、モニュメントを残してきた慣行を引き継ぎ、1キロの金の地金を容れた桐ケースの蓋に一文をしたためたが、その「寿ぎの歌」が朝日新聞歌壇に見事に入選し、いい記念になった。それは、「1キロの、黄金輝く共に生き、金婚喜寿の証に購ひし」という歌であった。

 オヤジは、ついでながらだが、年来の願い事であったことの実行を行った。それは、結婚当初に彼女に贈ることが出来なかった結婚指輪で、500万円を充てた。

 メモリアルイヤーとなるべき平成12年、彼女には過酷な運命が待ち受けていた。その年の後半、突如、暗転。5月に入院直後、ガン3期の宣告を受け、その後、20ヶ月に及ぶ闘病生活を余儀なくされ、その甲斐も空しく、平成14年1月20日、72年と1ヶ月の生涯の幕を静かに閉じた。
 
 人間、夫婦愛こそが究極の愛である。「血は水よりも濃し」と言うが、血以上に昇華するものが夫婦愛である。愛とは生活の中でのたゆまぬ努力である。人が生活をしていくうえで、唯一信頼できるのが夫婦である。そして、人は死に向かって生きてゆく。

 オヤジにとって、彼女の死の悲しみを癒すには、長い時間を必要とするだろう。
                                      

 このオヤジさんは、平成14年9月10日にご逝去された。子供さんはなかったが、奥様の教え子達が連れてきた子供達を孫のように可愛がっておられたそうだ。

 西方の浄土で再会を果たされただろう。きっと奥様に「あなたって、弱い人ね。もっとゆっくり人生を楽しんで来たらよかったのに」と言われているような気がするが、「やっぱりお前がいないとダメだ」と答えられたかも知れない。     合掌

2003/03/04   忘れられないご夫婦  中編   NO 362

 彼女の家族は、両親、そして、二人姉妹。彼女は長女だった。当時、大手私鉄の駅長をつとめていた父は、34歳という若さで逝去。そのため、母は、厄年である33歳での若後家となってしまったのである。

 母は、再婚することなく手に技術を身に付け、昭和の激動戦乱期に、見事に二人の娘を育み、昭和54年に74年間の人生の幕を静かに閉じた。

 彼女とは見合い結婚であった。町の世話好きなおばさんの口入れで、今のオヤジに引き合わされ、恋愛らしいプロセスの体験もなく、親の言うがまま結婚した。

 後年、彼女とオヤジは、共に職場などで、見合い結婚だと言っても誰も信じてくれなかったという思い出が懐かしい。

 結婚に纏わるエピソードを紹介しておこう。彼女は19歳であった昭和24年の暮れ、A女専3年生で、翌年3月に卒業を控えていたことから、卒業前の学生結婚となるが、この学校は厳格で、学生結婚はご法度。事実が分かれば退学処分ものだったらしい。

 一方、オヤジは26歳、駆け出しの貧乏サラリーマン。戦中の昭和18年、京都の大学に入学したものの、その頃までの特典「徴兵猶予」が突然に取り消され、いわゆる「学徒出陣」として戦場に駆りだされた。

 幸い、命は「永らえる」こととなったが、2年間の辛くて厳しい戦争体験は、私の人生観に大きな影響を与えることとなった。

 戦後、復員、復学して、昭和23年に卒業。やがて、大手企業に就職をした。

 さて、結婚式は、彼女の家で近親者だけによる「ささやかな」宴だった。

 オヤジは、世事に疎いということを理由にして、結納金なし。結婚指輪も贈れず、彼女の家に転がり込むようにして住み着いた。

 結婚世活は、気配り屋の長女と、呑気な末っ子との組み合わせで、案外、よかったのかも知れない。

 後年、彼女がオヤジによく言った言葉は、「あなたは極楽トンボ。結構なご身分でしたね」
それには、ただ納得。 

 昭和28年、彼女が教職の道を選んだことが、二人の結婚生活にとって大きな転機となった。

 教師としての「立ち振る舞い」は、あたかも天職に巡り合ったかのように輝き、積極的で活発であった。

 それは、一方に、性格的な「粘り強さ」も「性」に合ったのかも知れない。子供の目線に立って考え、物事をこなす。よく叱り、よく褒める。

 そうそう、こんな話があった。教育ママの風潮が盛んだった頃、PTAの席上で、子供の母親から、母親主導の干渉がましい教育観の発表があり、意見を求められた時、「育児」の前に「育自」。つまり、子供が納得できる中身のある器量の自己啓発があってこそ、言葉なくとも子供はしつけられ、親の背中にすべてが凝縮しているものだと、親達の反省を願って言葉を返したそうだが、それは、いかにも彼女らしいところである。

      明日に続きます

2003/03/03   忘れられないご夫婦  前編   NO 361 

 今日は、桃の節句。去年の今日、あるホテルで偲ぶ会が行われていた。

 子供のいないご夫婦。小学校の先生をなさっておられた奥様を亡くされ、ご主人の寂しさは計り知れないものがあられたようで、教え子さん達が企画された偲ぶ会が大成功という結果を迎え、担当した私もほっとしたことをはっきりと覚えている。

 そのご主人も昨年の秋にこの世を去られ、9月12日に静かな葬儀が行われ、過去ログの「NO 195 ノスタルジー」と「NO 196 挽歌」でこの「独り言」にしたためた。

 いかにも頑固そうなオヤジさんだったご主人。奥様の密葬儀と偲ぶ会でお話をしたが、私は、その時、<なんで奥さんが先に逝かれてしまったのだ>という強い思いを抱いた。

 <こんなタイプのお父さんを独りにしてしまったら寂しすぎる。男って弱いもの。絶対に長生き出来ないのに>

 そんな思いが的中したようで、奥様のご逝去から7ヵ月後の命終となってしまわれた。

 奥様の偲ぶ会の時、私はご主人にお願いしていたことがあった。それは、「奥様に対する思い」で、挨拶や謝辞とは異なる文章でと切望していた。

 やがて、スタッフが預かってくることになったご主人の文章、そこには如何にもこの人らしい思いが綴られており、私の上述の危惧を一層募らせることになったが、その内容は素晴らしいものであり、偲ぶ会の当日、私は精魂込めて朗読を担当した。

 このご夫婦は、もう、この世におられない。命を伝達される子供の存在もなく、世の中子供のない夫婦のことを考えると、私という身勝手な男の考え方で恐縮だが、伴侶に先立たれた夫ほど惨めなものはないだろう。

全国に独りで暮らしておられるお父さんのことを思い、今日から連載で、このオヤジさんが綴られた奥様への思いをしたため、えにしに結ばれた大切な「夫婦の愛」というものをお感じいただけたらと思っている。

 プライベートな部分については割愛をさせていただきますが、私が共感を覚えたこのお父さんだけではなく、多くの教え子達から拝聴したこのご夫婦の愛情物語にも感動し、教育者とされて偉大なご功績を残された奥様のことも思い偲びながら、僭越ですが「語り部」の立場でしたためることにいたします。

ある女の一生 「彼女の生き様」
 金融恐慌、取り付け騒ぎ、銀行倒産。軍部が独走をはじめ、15年間の戦争へまっしぐら。世情、物情が騒然とした混迷の年、それが昭和4年であった。

 彼女は、この年、大阪の地でこの世に生を享けたが、その幼児期は、本当に「ひ弱かった」そうで、小学校2年生の時、重い病気を患い入院。医者から見離されて死線をさまよったそうだが、奇跡的に存命(そんみょう)を得た。

 これが彼女にとって免疫の源になり、それは彼女の再生の人生の始まりだったと言えるかも知れず、それからの成長過程を経て、結婚してからも、これといった病気には縁がなかった。
               明日に続きます

2003/03/02   ある浪曲師の存在   NO 360

 初老の兆候だろうか、新聞を見るのに眼鏡が必要となってきたが、眼鏡を持ち歩くことはせず、喫茶店などではぼやけた文字を読んでいる。
 
ある時、大きな写真が掲載されているページが目に飛び込んできた。どこかで見た人物。「彼だ」と思いながら見出しから記事に入って行くと、やはり間違いなかった。

 生野区や林寺という地名の文字があちこちに散りばめられ軽快に躍り、一気に読み込んでしまった。

 彼は、よいことをされているので実名を出すが、本名「小島 勝」さん。芸名「廣澤玉造」さん。廣澤という姓でお分かりだろうが、本業の他に浪曲師でもある。

 『旅ゆけば駿河の道に茶の香り』『馬鹿は死ななきゃなおらない』など、清水次郎長伝や森の石松と三十石舟の一説の名調子を、40代以上の人なら耳にされたことがある筈。それが浪曲の名人と呼ばれた「廣澤虎造」さんの世界で、そのご一門の方のようだ。

 記事で知った小島さんの浪曲には特徴があった。看板とも呼ぶべき大きな絵をご用意され、紙芝居的に浪曲を語られるそうで、老人ホームの慰問などを積極的に活動され、今や、高齢者だけではなく若い人達にも人気が生まれている。

 テレビやラジオの出演も多く、「日本で初めての紙芝居浪曲師」として注目されている彼。

 そんな小島さんと数日前にお会いすることになった。彼は、まだ若い世代だが、上述のように人望が厚く、地域で町会長をつとめられている。そんな中、地域でご不幸があり、彼が世話人の中心となった葬儀を弊社が担当することになった。

 当日の担当責任者となったのは、弊社のホテル葬担当の2名。男性の部長とミス・ホスピタリティとの愛称で呼ばれる女性主任のコンビだった。

 この葬儀の頃、私の風邪がピークの時期に重なり、熱っぽくて声の調子がまるで別人。スタッフ達の顰蹙を買ったが、彼らは精一杯努力し、私がお通夜に行った時には、メモリアルボードと追憶ビデオを完成させてくれていた。

 その数日後、事務所に入ると大阪城の写真の目立つ1枚のポスターが連絡ボードに張ってあった。興味を抱いて読んでみると、それは来る3月30日に開催される浪曲発表会の開催案内。会場は大阪文楽劇場で、彼の芸名がトップに掲載されていた。

 この独り言では紙面が限られ詳細を記することが出来ないが、上記の文楽劇場での発表会の案内や、彼の活動を表記されるHPの存在があるので下記申し上げる。是非、ご訪問くださいませ。

 生野区は、下町だが「いい町」である。地域の活動にあって高齢者を大切にしているあたたかい町と言えるだろう。

 そんな中、彼の存在と活動に対して、心からエールを贈るところである。

 廣澤玉造さんのHP   http://www004.upp.so-net.ne.jp/tamazou/

2003/03/01   今日で1年目    NO 359

 今日は3月1日、この「独り言」の発信を始めてから丁度1年目を迎えたが、号数からすると7回発信が出来なかったことになる。 

 くだらないことを書いてきたが、おそらく死ぬまで続けるだろうし、死を迎える病院のベッドの白い天井を見ながら打ち込んでいる光景を思い浮かべており、その頃に書き込む内容は相当強烈になっている筈。

 NO 357「悲喜こもごも」に書いたが、本当に表記したいことが山ほどある。

しかし、それをやれば業界や宗教界を「てんやわんわ」にひっくり返すことになってしまう。だから、今しばらくはオトナシクしていようと思うが、もしもガンの告知でも受け、自身の死期を悟ったら現役を引退し「今日から始めます」と宣言して書き出すだろう。

 ワープロが生まれ、パソコンが登場した。日記や闘病生活、また、人生の黄昏の日々を思い綴るのに、こんな便利なものはなく、パソコンは高齢者がもっと活用するべきもの。

それは、インターネットとワード機能さえあれば十分で、きっと人生が広がるものと思っている。

 若かりし頃、小説「あの世の旅」を著したが、400字詰め原稿用紙に鉛筆で書き込んだのが660枚。それを2回書き直したことも懐かしいが、当時、数日振りに草稿に取り組むとストーリーを忘れてしまい、遡って読むことから始めなければならず、こんなノートパソコンの登場が夢のようだ。

 この小説の文字数を計算すると約26万字。昨日、独り言のファイルを開く時きに見た数字は<351,847>字。別のコラムの原稿と合わせると約540,000字。もう、小説の文字数の2倍に達していることになる。

 小説発刊から10数年の時の流れ、文章能力の成長は全くなし。相変わらず駄文の列記。これからも進歩することはないと断言する。

死期を悟った時から書き始めるものは、間違いなく話題性としての認識に至るだろうが、
単なる三面記事的なものではなく、勧善懲悪をコンセプトにして社会のプラスになればとの思いを秘めており、正直に言って、<早くその時がやって来たらな>と思っている。

 『独り言』にとんでもないことを書いて逝きやがった。お陰でエライことになった』

 そんなことを言われて恨まれるだろうが、社会の歓迎と賛同を頂戴し、葬祭業界の文化の創造に尽力出来ると確信している。それを私の生きた「証し」としたい。

 葬祭業者は「遺族の悲嘆」の理解に努力し、宗教者は「人を幸せにする」ことに尽力いただきたいもの。こんな葬送の原点がどうもビジネス優先になっているようで、悲しみの遺族を二重、三重に悲しませていることも少なくない。

 ある通夜の法話で、「昔は、通夜は夜通しでした」というお言葉あった。私は、それが、なぜこのように変化してしまったのかというプロセスが重要だと思っている。

葬儀がなぜ1時間になっているのか、また、電気の誕生、ラジオやテレビの登場、カメラやビデオの流行など、時代の流れで社会が大きく変わってしまっている。交通の発達も凄いし、飛行機やロケットも飛ぶ時代。そこで、伝統と格式だけで葬送が変わらないのはおかしいと思う。

 変わっていないのは大切な人を送る「悲しみ」。昨今、それさえ変わって来ていることに気付きたいもの。

 『宗教離れ』『無宗教形式の増加』『檀家であるが信者じゃない』『家族葬』『自由葬』

 『殺人事件』『自殺』『ミサイル』『戦争』『放火』『ストーカー』『汚職』 

そんな言葉が新聞の見出しで躍っている。社会という「人の世」が病んでいる。誰かが医師にならなければならないだろう。その医師の役割を担うのは、政治家と宗教者ではないのだろうか?


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